【YouTube版】無私の激突、征韓論~西郷対大久保
意見の純粋さだけで、かれらは国家をふたつに割るほどの対立をしてしまったのである。
■■転送歓迎■■No.3418■■R06.02.07■■4,183部■■
■1.西郷の遠大な防衛構想■
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朝鮮国の暴慢無礼はもはや許し難いものがある。ただち
に出兵すべきだ。
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明治6年6月12日の閣議で、参議・板垣退助が強硬論を吐
いた。これが誕生したばかりの明治新政府をゆるがす征韓論の
閣議における第一声であった。
明治元年以来、新政府は朝鮮に国交回復を5年以上も呼びか
けていたが、朝鮮政府は国書の中に「皇祖」など清国皇帝が使
う文字があると受け取りを拒否し、さらに「日本人は西洋人と
交わって、もはや禽獣(鳥や獣)と変わるところがない」と、
日本公館への食糧供給も拒んで国外退去を命じた。日本国内は
これに激高していた。特に別府晋介や桐野利秋など西郷門下の
陸軍幹部達が強硬派だった。
西郷隆盛は板垣の強硬論を抑えて、「先に軍事行動に出るの
はよくない。まず特命全権大使を送り、朝鮮政府と意を尽くし
て話し合うべきだ。それでも応じなければ、議を世界に明らか
にして出兵すべきだ」と言った。そして自分がその大使になり、
護衛もつけずして朝鮮に行き、道理を尽くして修交と和親を求
めようと提案した。
維新の際も、西郷は幕府代表の勝海舟と差しで話し合い、無
事に江戸城明け渡しを実現して、江戸を戦火から守った。今回
も西郷は朝鮮の実力者、国王の実父大院君に対して、同じ方法
で解決を図ろうとしていた。韓国と固く手を結べば、いずれ清
国と結ばれる日も来る。そうすれば、国内の不平派も、敵は韓
国や清国ではなく、東アジアを狙うロシアであり、欧米諸国で
あることが分かるだろう、、、西郷の遠大な防衛構想だった。
そのために、西郷は朝鮮や上海、満洲にまで部下を潜入させて、
大陸の実情を探らせていた。
三条太政大臣は戦争につながりかねない重大事なので、1年
9ヶ月におよぶ欧米見学[a]を終えてまもなく帰朝する右大
臣・岩倉具視を待って熟議を尽くそう、と何とか先送りにした。
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