【YouTube版】近代日本を生んだ水戸学の系譜
イエール大学のマイケル・ソントン氏は、水戸を「世界で最も重要な革命の生誕地」と呼ぶ。
■■ 転送歓迎 ■■ No.3423 ■■ R06.02.23 ■■ 4,183部■■
■1.渋沢栄一に対する「天の使命」
渋沢栄一を描いたNHK大河ドラマ『晴天を衝(つ)け』の終盤は、もとの主君にして最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の伝記編纂を始める場面に入ります。
この伝記編纂は引退後の暇つぶしというようなものではなく、「御伝記編纂が、私に対する天の使命である」とまで、その序文の冒頭に書くほどの重大事でした[鹿島、4068]。 渋沢が周囲の反対を押し切って引退したのも、「第一に幕末史を著述して恩主徳川慶喜公の進退を明らかに支度(したい)ため」と述べています。
「徳川慶喜公の進退」とは、欧州歴訪中に新聞で読んだ大政奉還と鳥羽伏見の戦いの事でした。
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殊に驚いたのは、鳥羽・伏見の出来事であつた。第一に政権返上が如何なる御趣意であらうかとの疑を持つて居る処へ、此の如き開戦の事を聞いては、何故に公は斯かる無謀な事をなされたかといふ憾(かん、残念に思う気持ち)を持たざるを得なかつた。[鹿島、4085]
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慶応3(1867)年11月9日に慶喜は朝廷に大政奉還を上表し、翌年1月3日、王政復古の大号令が発せられましたが、辞官納地(官位返上と領地返上)を求められて、家臣たちが薩摩藩の陰謀だと激高しました。慶喜は戦闘が始まるのを恐れて大阪城に引っ込みましたが、鳥羽・伏見の戦いが起こってしまい、船で江戸城に戻り、謹慎してしまうのです。
「臆病者」「暗愚」などと非難されるような行動を、なぜ慶喜がとったのか、渋沢には不思議でした。いや、渋沢だけでなく日本の歴史の中でも最大級の謎でした。
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