No.1361 津田梅子 ~ 8歳での米国留学から女子英学塾創設
「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」-その理想に一生をかけた国際派日本女性。
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■■■ 伊勢雅臣 講演 ■■■
・演題 「世界が称賛する『日本人が知らない日本』を学ぶ」
・3月23日(土)受付14時 開会14時30分~閉会16時
・川崎市生活文化会館 てくのかわさき
(JR南武線武蔵溝ノ口駅、東急田園都市線溝の口駅から徒歩数分)
・会費 無料
・主催 日本会議神奈川 川崎支部
・申込 メールで mizonokutijinjya@kif.biglobe.ne.jp あて
お名前、所属団体(あれば)を添えて、3月20日(水)までに
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■1.「父上ッ」
明治15(1882)年11月20日、客船アラビック号がサンフランシスコから20日余りの航海を経て、横浜港に入ってきました。11月の太平洋は雨や雪の日が多く、来る日も来る日も黒雲の下を帆を張って進んできましたが、ここ横浜では冷たい風が吹きつけるものの空は青く澄んでいます。
横浜港はまだ大きな船を横付けできる埠頭がなく、アラビック号は海岸から少し離れた場所に錨を降ろし、下船する人々は艀(はしけ)船に乗り換えて上陸します。22歳の山川捨松と18歳の津田梅はようやく順番が回ってきて、甲板から艀まで鉄製の梯子段をスカートの裾を気にしながら降りていきました。
艀船が乗客で一杯になると、船頭が艪(ろ)を漕いでアラビック号から離れます。そこにもう一隻の艀船が陸から近づいてきました。その中に、見覚えのある、体格の良い中年の男がいました。男は船べりを掴んで、大声で呼びかけてきました。「梅ッ。梅だなッ」
次の瞬間、梅は夢中で叫びました。「父上ッ」
すっかり忘れていた日本語が、自分の口から飛び出したことに、我ながら驚きました。数え年わずか8歳で、この横浜港で父と別れてアメリカに留学し、11年の歳月を経てここに再会したのです。
■2.「おなごをアメリカに留学させたら」
「いっそのこと、おなごをアメリカに留学させたら、どうじゃ?」
女子留学生派遣は、この北海道開拓使次官・黒田清隆の一言が発端となりました。開拓使ではすでに男子留学生の第一陣をアメリカに送り込んでいました。それを女子にまで拡大しようというのです。
黒田は北海道開拓の指導者育成のために学校を作る計画を進めており、その教師役として招聘した地質学者トーマス・アンチセルが女子のための学校も設けては、と提案しました。開拓は夫婦揃ってなすべきであり、その影響でアメリカでは女性の地位が高い、とアンチセルは説きました。
黒田はすぐに賛同し、さらに「いっそのこと」という冒頭の言葉が出てきたのです。黒田は一瞬、目を輝かせてましたが、すぐに表情を曇らせて、「じゃっどん、希望する者がおらんな。まして娘となると、親が手放さんじゃろう」
そこに「うちの娘では、いけませんか」と声をうわずらせて言ったのが、黒田の通訳を務めていた津田仙でした。仙は英学塾を出て、幕府の外交方に務めており、アメリカにも行ったことがありました。そして、アメリカでの農家の豊かさや地位の高さに目を見張り、西洋技術を導入して、日本の農業を豊かにしたいという志を持っていました。
維新後、西洋野菜を作り始め、そこから北海道開拓を志す黒田清隆に見いだされて、通詞をするようになったのでした。仙はやがてアスパラガスの缶詰販売などで成功し、その財をつぎ込んで、農学校を開きます。
訪米の経験からも、ぜひ自分の娘を送り出したいというのは自然な気持ちだったでしょう。しかし、それは数え10歳の琴という娘でした。「幼すぎますか」と聞く仙に、「まあ悪くはなか。西洋の礼儀作法も身につけさせたか。じゃで幼い娘を送って、長く留学させたらよか」。男子の留学は4、5年だが、その倍はアメリカに居させたい、と言います。
■3.「見てごらん、あんな小さい子まで。親は鬼だね」
仙は胸を高鳴らせて、家まで走って帰りました。しかし、琴は子供のいない兄夫婦に養子に出していました。その兄は大反対。琴にも話しかけて見ましたが、母親に後ろに隠れてしまって、「そんなところに行かないッ」と大声で泣き叫びます。
その時、仙は背中に視線を感じて、振り返ると、琴の妹、梅と目が合いました。梅は無口ですが、読み書きも記憶力も琴をしのぐものがあります。
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梅、おまえは賢い。だから、わかるような。これは、おまえのためになることだ。おまえが行ってくれれば、父を助けることにもなる。
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梅はかすかに頷きました。母親の初が慌てて「やめてくださいッ。こんな頑是(がんぜ)ない子に、わかるはずがないでしょうッ」 しかし、もう仙には兄の怒声も、女たちの金切り声も届きませんでした。
後に、梅はこう語っています。
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私は本当は、アメリカなんか行きたくなかった。遠い知らない国に行くのが怖かった。怖くてたまらなかった。それでも父上のためと思って、我慢して船に乗ったんです。向こうでだって、つらいことを山ほど我慢してきたんです。立派になって帰ったら、父上が喜んでくれると信じて──[植松、3,664]
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横浜からの出発の際には、見物人からは聞こえよがしに、「見てごらん、あんな小さい子まで。親は鬼だね」という声も聞こえてきました。新聞記者たちは最年少の梅を取り囲んで、「言葉も通じない国に行くんだよ。それでもいいのかい」と意地悪く聞きます。梅は腹立ちを抑え、思い切って大きな声で答えました。
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私の父上は英語が上手です。私もアメリカで一生懸命に学んで、大きくなったら父上のようになります。[植松、603]
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記者たちから「ほう」という感嘆の声が漏れました。仙が近づいてきて、梅の前でしゃがんで言いました。
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梅、立派だった。おまえは立派に答えた。父は心から、おまえを誇らしく思うぞ。梅、元気で行って来い。泣かずに行くのだぞ。
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そういう父のまぶたには、涙がにじんでいました。
■4.5人の女子留学生
梅は5人の米国女子留学生たちの一員でした。吉益亮子(かぞえ15歳)、上田悌子(同15歳)、山川捨松(同12歳)、永井繁子(同9歳)、津田梅子(同8歳)です。このうち年長の吉益亮子と上田悌子は健康を崩し、途中で帰国しています。10年以上もの留学を無事終えたのは、山川捨松以下の3人でした。
山川捨松は東部きっての名門女子大学ヴァッサーカレッジを優秀な成績で卒業しました。帰国後、参議陸軍卿・大山巌の妻となり、鹿鳴館で上流階級の婦人たちに西洋の作法を教えたり、日本で最初の慈善バザーを開いたりしました。日露戦争に際しては、アメリカの週刊誌に投稿して、寄付金を集めたりもしました。[JOG(745,747)]
永井繁子は同じくヴァッサーカレッジの音楽科を捨松や梅より1年前に卒業し、後に海軍大将となる瓜生外吉(うりう そときち)と結婚。夫の協力を得て、女子高等師範学校教授として英語を、東京音楽学校教授として音楽を教える多忙な人生を送りました。
そして、津田梅子は子のないランマン夫妻の家に下宿し、実の娘のように可愛がられ、私立女学校を卒業しました。帰国後は、上記の二人にも助けられながら、女子英学塾、現在の津田塾大学を創設します。
この三人の人生を見ても、大胆な日本最初の女子留学生派遣は日本の近代女子教育の確立に大きな功績を残したと言えるでしょう。
■5.「一生懸命国のために働いて、義務を果たさなければ」
帰国してから梅は、ランマン夫人あてに、こんな手紙を書いています。
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父は先日、私のために費やされたお金の話をしました。その額は、日本で一家が豊かな暮らしをするに充分なほどのもので、それを国が出したのだと言いました。
だから私は一生懸命国のために働いて、義務を果たさなければなりません。[大場、129]
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仙は、捨松と梅を連れて、文部卿(文部大臣)の福岡孝弟(たかちか)に挨拶に行きました。福岡は二人が日本語がもう忘れていると知って、こうため息をつきながら、言いました。
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それなら女の御雇外国人と同じだな。大金をかけて十一年も留学させるくらいなら、御雇外国人を何人も呼べたであろうに。黒田どのは女子留学生を、開拓使の宣伝に使ったのだな。帰ってきてから何をさせるかも考えずに。[植松、p146]
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帰国時に、こういう考えの人物が文部行政を見ていたのが、二人が活躍の場を与えられなかった原因です。しかし、二人の「一生懸命国のために働いて、義務を果たさなければ」という志は、こんなことではへこたれません。
やがて、渡米の際に岩倉使節団の一員として同じ船に乗り合わせた伊藤博文から、その妻や娘に英語や洋式作法を教える家庭教師役を頼まれました。すると、他の政府高官の夫人たちからも「私も」「私も」と次々に希望者が殺到しました。さらに華族女学校が開校すると、伊藤の紹介で教授として迎えられました。
■6.「日本人であることを忘れないように」
やがて、梅は、日本の女子の高等教育の確立こそ、自分の使命だと考えるようになりました。政府は英語教育者の資格制度を設けましたが、試験を受ける女性はほとんどおらず、そのための教育をする学校もありませんでした。国立の女子師範学校は教員養成はしていますが、英語の分野はありませんでした。梅は女性の英語教師を育てる専門学校を作ろうと志ざしたのです。
梅の凄いところは、その志をとことん実行してしまう力量です。まず、自分の学校を創立する前に、私学を運営するためには、せめて捨松と同様の大学教育を受けなければと考えました。
しかし、すでに国費で10年以上、留学しているので、もう一度と頼むわけには行きません。そこで、一回目の留学の時に知遇を得ていたモリス夫人に相談しました。夫人は東部知識人社会に有力な人脈を持っており、話を聞いた新設の女子大学の学長は授業料の免除と寄宿舎の一室を与えてくれる約束をその場でしてくれました。
また、華族女学校の校長からは、二年間の留学期間中、給料をそのまま支払い続けるという計らいを受けました。こうして、梅は明治22(1889)年7月、20代半ばで二度目のアメリカ留学に旅経ったのです。
■7.「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」を目指して
帰国後の明治30(1900)年、梅は36歳にして「女子英学塾」を創設して、世間を驚かせました。年俸800円(国会議員が年収2千円)の華族女学校教授の地位を投げ打って、つつましい日本家屋を借り、わずか10人の塾生を、ほとんど無報酬の個人教授の形で教え始めました。
梅が目指したのは、今日の津田塾大学でも継承されている「男性と協力して対等に力を発揮できる、自立した女性の育成」でした。開校式では、次のように述べています。
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専門の学問を学びますと兎角(とかく)考へが狭くなるやうな傾があります。………英語の専門家にならうと骨折るにつけても………完(まっ)たい婦人即ち allround women となるやうに心掛けねばなりません。[大場、2,397]
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明治日本が独立を維持し、国際社会に伍(ご)していくためにも、狭い英語の専門家ではなく、男性と対等の立場で力を合わせる全人的な人格を持つ女性が必要でした。そして、それこそ黒田清隆や父・仙の目指したものでした。
梅の授業ぶりにも、この志がよく現れています。当時、梅から直接教えを受けた岡村しなという女性のこんな思い出話が記録に残っています。
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・・・・・・先生は、アメリカは好きだけどね、・・・・・・頭に染みこんだ・・・・・・日本のspirit、………日本人であることを忘れないようにせい、英語をしゃべることは何でもない、日本のspiritを忘れるなって。それが偉いところで、先生の。本当、たしかにそうなの。それを頭にたたきこまれた。[大場、2,599]
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帰国時に文部卿が言った「女の御雇外国人」では、こういう教育は望めません。「自分は日本人である」という自覚と愛国心をしっかり持ってこそ、国のために本腰を入れた貢献ができるのです。梅が育成した日本女性たちは、祖国否定のアメリカかぶれでも、男性と対抗しようとするフェミニストでもありませんでした。
■8.周囲の無私の恵みのお陰で
女子英学塾を創立してからは、梅を応援するアメリカの夫人たちから、次々と信じられない額の寄付が寄せられました。梅は塾運営のための経費をアメリカと日本の賛同者たちの寄付に頼り、その依頼で、月に300通もの手紙を書いた時もあったといいます。
自分は年俸800円の華族女学校教授の地位を投げ打って、ほとんど無給で塾を続け、寄付金は生徒の奨学金にあてて、貧しい小学校卒業だけの生徒も受け入れていました。そして梅は、その一人ひとりに寄り添って、細やかな、しかし厳しい指導を続けて、一人前の英語教師として育てていったのです。
そうした梅の無私の姿勢に共感して、多くの人々が無私の思いで梅の志を助けてくれたのです。数え年わずか8歳で渡米し、帰国後は理想の学校を創設するという志を実現した梅の一生は、厳しい寒さの中でも凜と花を咲かせた梅の木のごとく見えます。しかし、その梅の木は祖国という土壌からの養分や、太陽の光、アメリカからの風など、豊かな恵みを一身に受けて、見事な白梅を咲かせることができたのでした。
(文責 伊勢雅臣)
■おたより
■明治時代の日本人の偉大さ(Kimioさん)
津田梅子氏は偉大な教育者だったことは存じていましたが、今回の伊勢先生の文から、8歳に過ぎない娘を、交通と通信機関の発達していなかった明治時代、そのころにアメリカに送り出した父上の仙さんの心境に想いを寄せると、タダ、敬服せざるをえません。
さすが、仙さんは、榎本武揚を見出した黒田清隆に仕えていた人物の面目躍如ですね。
まずは、明治時代の日本人は、私益よりも、常に国家を念頭に置いていたことを知って、かれらの偉大さを充分理解できました。それにしても、読み込んでいる内に、感動の余り、思わず涙腺が緩みました。ありがとうございました。
■伊勢雅臣より
お心の籠もったお便り、ありがとうございました。黒田清隆についても、そのうち取り上げます。
■日本の誇りを持った国費留学生、梅子が、日本のために恩返ししてくれた(佳裕さん)
すべての英語学習者が肝に銘ずべきは、津田梅子が生徒にのべた、<頭に染みこんだ日本のspirit、日本人であることを忘れないようにしなさい、英語をしゃべることは何でもない、日本のspiritを忘れるな> との言葉だと感じました。日本の誇りを持った国費留学生、梅子が、日本のために恩返ししてくれたことを嬉しく感じました。
■伊勢雅臣より
英語だけなら、英米では子供でも話せます。日本人が英語を使って、日本人らしく語るところに、英語を学ぶ価値があります。
■リンク■
・JOG(745) 大山捨松(上) ~ 日本初の女子留学生
12歳でアメリカに渡った捨松は、伸び伸びと育ちながらも、国を思う心は忘れなかった。
https://note.com/jog_jp/n/n7b8742eb82a9
・JOG(747) 大山捨松(下)~ 貴婦人の報国
女子留学生第一号として帰国した捨松は、国に報いる道を求めた。
https://note.com/jog_jp/n/n611261a792df
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
・大庭みな子『津田梅子』★★、朝日文庫、R01
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4022619821/japanontheg01-22/
・植松三十里『梅と水仙』★★★、PHP研究所、R01
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B0832C7HJP/japanontheg01-22/
■伊勢雅臣より
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