No.1388 楠木正成が遺した日本人の生き方


 自分の人生を何かのために燃やし尽くした人間だけが、笑って死んでいける。

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■■■松浦光修教授の講義録画を皆で視聴し、語り合う会■■■

本稿で紹介した松浦光修教授の講義を10人程度の少人数で聴き、語り合う会で、伊勢雅臣と一緒に学びませんか?

■日時 10月13日(日)10時 ~ 17時
■場所 神戸市立婦人会館(湊川神社の西隣)
■録画視聴と討論
 ・松浦光修先生講義『幕末の志士に学ぶ ~ その死生観を中心に』
 ・昭和音楽大学名誉教授・國武忠彦先生講義『国語伝統 ~ 言葉の幸はふ国』
 ・参加費 社会人2000円、学生無料
 ・終了後、希望者は懇親会
 ・申込みは、本メールへの返信で、お名前と年齢をお知らせ下さい。先着5名まで。
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■1.幕末の志士たちは楠木正成の生き方に導かれていた

「幕末の志士たちは、これほどまでに楠木正成の生き方に導かれていたのか」

 これが皇學館大学・松浦光修教授の講義「幕末の志士に学ぶ-その死生観を中心に-」を拝聴して、感銘に残った点です。筆者が半世紀にわたって教えを受けている公益社団法人 国民文化研究会の全国学生青年合宿教室での9月8日のお話でした。その講義資料から、幕末の志士たちが楠木正成に言及した言葉をご紹介しましょう。
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吉田松陰 『留魂録』最後の和歌五首のうちの最後の一首

七たびも 生きかえりつつ 夷(えびす)をぞ 攘(はら)はんこころ 吾れ忘れめや
(楠木正成公の七生報国のように)七度生き返ったら七度とも異国から祖国を守ろうとする心を、私は決して忘れはしない)
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 正成は湊川の戦いで、足利尊氏の数万の軍と6時間余に渡る激戦を続けた後、弟・正季(まさすえ)と差し違えて自刃します。二人がからからと笑いながら交わした最後の会話は、次のような内容でした。
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 七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵(朝廷に敵対するもの)を滅ぼさばや(滅ぼしたい)とこそ存じ候らへ。
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 吉田松陰は正成と同じ気持ちで、七度生まれ変わっても、日本を植民地化しようとする異国を打ち払って祖国を守ろうとしたのです。


■2.高杉晋作、楠公から受けた「気」

 吉田松陰の門下生の一人、高杉晋作は次のような一文を残しています。
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・・・大地の正しい『気』は、ほかでもない、わが日本に集まっています。それが、人としては楠公となってあらわれ、木では扶桑となってあらわれ、山は富士山となってあらわれています。それらは、すべて天地の正しい『気』が、漏れてあふれ出てかたちになったものです。それらを観て、それらに触れれば、人は、また自分の『気』を培養することができるのです。
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「扶桑(ふそう)」とは、中国の伝説で東方の果てにある巨木です。転じて、日本のことを扶桑国と呼ぶようになりました。そうした巨木と、山なら富士山、人なら楠公、すなわち楠木正成が大地の正しい「気」が集まったものだと言うのです。確かに人は巨木、高山、そして偉大な人物に触れると、「気」が伝わってくるように感じます。

 高杉晋作の幕末の縦横の活躍ぶりはまさに「気」に満ち満ちたものでしたが、それは正成から受け継いだものでした。


■3.坂本龍馬の「菊水の紋」思慕

 幕末にこれまた縦横無尽の活躍をした坂本龍馬も、楠公を敬慕して、次の和歌を詠んでいます。
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「月と日と むかしをしのぶ みなと川 流れて清き菊の下水」 

(歌意)「楠公の忠義は、 (湊川の墓碑にも)月と日のように普遍的なものだといわれているが、ほんとうにそのとおりです。遠い昔のその事跡を思えば、楠公が討死した湊川の流れは、今も清らかに菊 (皇室)の根元を潤しています。
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「菊の下水」とは、皇室の菊花紋の上半分に、その下を水が流れる「菊水」の紋で、楠公が用いた家紋です。もともとは後醍醐天皇が楠公の忠義を嘉(よみ)して菊のご紋を下賜されたのですが、正成は皇室の紋を使うことは身に余ることだとして、その菊の根元を潤す流水として、一族の皇室への忠義の象徴としたのです。

 龍馬は、皇室の根元を潤す下水として皇室への忠義に命をかけた楠公の心を偲んで、この歌を詠んだのです。


■4.西郷の「湊川のほとりの青い蛍になりたい」

 西郷隆盛もこんな漢詩を残しています。
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西郷隆盛の漢詩「湊川感懐」(現代語訳)

皇室のまわりに雑草が生い茂っていることは、昔も今も変わりません。
(かつて楠公は)みずからが提案した正しい献策が入れられずに出陣され、湊川で討死されたが、その無念の思いは、湊川のほとりで、千年も漂っています。
私の願いは、生まれ変わって、湊川のほとりの青い蛍となることです。
そして、楠公の香り高い遺骨のおそばにいて、わが心を楽しませたい、と思っています。
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 西郷が明治の維新政府に失望して下野した後の明治7年頃の作とされています。西郷は楠木一族と並ぶ南朝の忠臣・菊池一族の末裔と自負しており、正成を描いた『太平記』も子どもの時からよく読んでいたと言われています。

 西郷の維新政府への失望は、「西郷南洲翁遺訓」での「こんな有様では戊辰戦争の戦没者たちに申し訳ない」と涙を流す場面に窺えます。西郷はその「無念の思い」を、「正しい献策が入れられずに出陣され、湊川で討死された」楠公の「無念の思い」に重ね合わせてたのでしょう。それはやがて西南戦争での自決を暗示しているようです。

 松浦教授はこれら幕末の志士たちの思いを、次のようにまとめています。
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 幕末の志士たちは、一言で言えば、「自分も正成のように生きたい」と願った人々であったといえるでしょう。言葉をかえていえば、「自分は正成の"生まれかわり″になる!」と誓って、美しく生き、哀しく斃れていった人々です。[松浦、p209]
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■5.「長州様は、正成をなさるそうな・・・」

 こうして楠公の生き方を深く受けとめていたのは、志士たちばかりではありません。幕末の京都の祇園で、芸娘(げいこ)さんたちは「長州様は、正成をなさるそうな・・・」と言い合っていたそうです。「正成をなさる」という一言で、特段の学問もない芸娘さんたちの間でも、尊皇のために一族を挙げて戦う、という楠公の生き方が了解されていたのです。

 忠臣蔵の物語にも、正成の影響は及んでいます。当時の人々は主君の仇討ちを果たした大石内蔵助(くらのすけ)を「楠公の生まれ変わり」と言っていました。当時のこんな歌が残されています。

 楠(くすのき)の いま大石(おおいし)と なりにけり なおも朽ちせぬ 忠孝をなす
(楠木正成が大石内蔵助と生まれ変わり、いまも朽ちない忠孝をなした)

 大石たちに討たれた吉良上野介(こうづけのすけ)は足利尊氏の正統を継ぐ名家でした。その上野介にとどめを刺した大石内蔵助こそ、「七度生まれ変わっても朝敵を滅ぼそう」と誓った正成の生まれ変わりだと言うのです。

 命を捧げて主君の仇討ちを果たした四十七人の物語は、楠公の物語に重ね合わされることによって、主君の恨みを果たすという以上に、朝敵を滅ぼす「忠孝」の物語に昇華されたのです。

 芸娘たちまで「正成をなさる」と語り合ったり、忠臣蔵の物語が楠公に重ね合わされたりと、江戸時代においては、正成の生き方が一般大衆の倫理の土台になっていたことが、よく窺われます。


■6.大東亜戦争の英霊たちの楠公思慕

 楠公の生き様、そして死に様は、大東亜戦争を戦った英霊たちにも偲ばれていました。特攻隊の部隊名には楠公にちなんだものが少なくありません。「金剛隊(楠公が倒幕の狼煙をあげた金剛山)」、「菊水隊(楠木一族の家紋である菊水)」、「正行隊(まさつら、正成の嫡男)」、「桜井隊(正成が湊川に赴く前に正行と今生の別れをなした桜井駅)」などです。

 菊水特別攻撃隊の高久健一少尉は昭和20年3月、22歳で戦死されましたが、次のような遺文を残されています。
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楠公のいたましい姿、正行の悲願、それへの日本人の、たゆみなき切ない郷愁に、日本の伝統は生きているのだ。…成果がなければ、すべて無駄であると論ずる者は、人の美しさ、日本の伝統を知り得ぬ者であらう。[松浦、p234]
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 特攻隊の隊員たちの出撃前の顔には、「まことに不思議な、まるで透きとおるような、清らかな笑いが満ちています」と松浦教授は指摘します。

 さらに教授は、昭和17(1942)年6月のミッドウェー海戦を「近代の湊川」と呼んでいます。日本の空母4隻と、米空母3隻が中部太平洋ミッドウェー島周辺で激突した海戦ですが、日本海軍は空母4隻を失ったのに対し、米海軍は空母1隻沈没で、以後、日本は制空権、制海権を失い、日米戦争の転換点となりました。

 日本の偵察機が「敵は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻」との報告をもたらした時、山口多聞・第二航空戦隊司令官は「そんな編成はないはずだ。かならず空母がいる。これ以上ぐずぐずはできない」として、現在の基地攻撃用の爆弾装備のままで良いから、攻撃隊を直ちに発進させるよう南雲司令官に進言しましたが、聞き入られませんでした。

 この時の6分の遅れによって、日本の空母3隻がやられてしまいました。幸い山口が搭乗する空母「飛龍」はやや離れていて無事だったため、攻撃隊全機を発進させ、敵空母1隻を仕留めます。しかし、「飛龍」にも敵機24機が襲いかかり、航行不能に陥りました。加来艦長は「もはやこれまで」と総員退去を命じ、山口と二人で美しい月を見ながら、にこにこと最期の時を過ごしました。

 この最期のシーンは、湊川での楠公兄弟が高笑いしながら死んでいった様を思わせます。そもそも山口多聞の「多聞」とは、楠公の幼名からとったものでした。幼少の頃、父親から「大楠公のようになってもらいたい」と諭されていたそうです。


■7.「自分の人生を燃やし尽くす」

 松浦教授は、このように日本人が歴史を通じて楠公を思慕してきた様子を振り返りながら、こう述べます。
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楠公とその一族は、「自分がどうなるか…」、「結果がどうなるか…」、「そんなことをして、どうなるのか…」などと、そういう余計なことは、いっさい考えず、ひたすら忠義のために戦いつづけ、自分の人生を燃やし尽くしました。

 そうであるからこそ楠公は、湊川の最後に望んで、「よに嬉しげなる気色」で、「七生報国」を誓って死んでいくこともできたのでしょう。その心境は、楠公を仰いだ吉田松陰などの志士たちも、特攻隊の若者たちも、山口多聞さんも、たぶん…みな同じであった…と思います。[松浦、p246]
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 松浦教授は、なぜ楠公兄弟が最期に「からからと笑って」逝く事ができたのか、次のように解き明かしています。
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 二人にあつたのは、「お互い、今回の人生では、よくやったなあ…」という充実感や、あるいは「お互い、次の人生でも、しっかりと戦おうな!」という、なんというか…次の人生での戦いに向けての、"武者震い"をするような気分ではなかったでしょうか。

二人は自分たちが、来世でも、また出会い、ふたたび力をあわせて天皇さまの敵と戦うことになる…ということを、たぶん確信していたはずで、そのことに関しては、何の迷いもなかったでしょう。たぶん、だからこそ最後に望んで、二人とも明るく笑うことができたのではないか、と思います。[松浦、p174]
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 我が先人たちは、死者の魂は近くの山の上から子孫の繁栄を見守っていて、時々、子孫の一人として生まれ変わってくる、と信じていました。それは自分一人が子孫を見捨てて、天国や極楽に行くことを願うキリスト教や仏教とはまったく異なる死生観でした。

 何度でもこの世に戻ってくる命ならば、今回の限りある命を精一杯、国と子孫のために使って、次の生に備えようとするのが、我が国の武人たちが理想とした生き方でした。


■8.命は何かのために使ってこそ、はじめてその価値が現れる

 戦後の我々は、国の為に命を捧げるのは軍国主義だとして、楠公も忠臣蔵も幕末志士も日清・日露・大東亜戦争の英霊たちの物語も、自ら墨で塗りつぶしてきました。しかし、いくら命を後生大事に守っても、いずれは死んでいく身。命は何かのために使ってこそ、はじめてその価値が、意味が、現れるのです。

 松浦教授は、楠公の生き様から、こう問いかけます。
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ひたすら忠義のために戦い、自分の人生を燃やし尽くした者だけが、「七生報国」を確信して、笑って死んでいける…とすれば、はたして私たちは、どうでしょう? 笑って死んでいけるほど、この人生を燃やし尽くして生きているでしようか?・・・

日本という尊い国の、その"心の柱"である楠公の最後の地・湊川に立つたび、私はいつも、誰かから、こう問われているような気がしてなりません。「あなたは今、どのような志をもっているのか? ・・・あなたは今、どのように生きているのか?」と…。[松浦、p246]
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 この問いかけを、松浦教授はこう結びます。
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小さなことでも、今すぐに祖国のためにできることが、何かあるはずです。まずはお互い…、そこからはじめたいと思います。[松浦、p248]
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(文責 伊勢雅臣)

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■■■松浦光修教授の講義録画を皆で視聴し、語り合う会■■■

本稿で紹介した松浦光修教授の講義を10人程度の少人数で聴き、語り合う会で、伊勢雅臣と一緒に学びませんか?

■日時 10月13日(日)10時~17時
■場所 神戸市立婦人会館(湊川神社の西隣)
■録画視聴と討論
 ・松浦光修先生講義『幕末の志士に学ぶ ~ その死生観を中心に』
 ・昭和音楽大学名誉教授・國武忠彦先生講義『国語伝統?言葉の幸はふ国』
 ・参加費 社会人2000円、学生無料
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■リンク■

・No.678 名将・山口多聞
 この名将が真珠湾攻撃の指揮をとっていたら、大東亜戦争は別の展開になっていたろう。
https://note.com/jog_jp/n/n91e8592e4281


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・松浦光修『日本の心に目覚める五つの話』★★★、経営科学出版、R05


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