No.1391 水戸光圀公 ~ 多くの先人の志と生き様を描いた『大日本史』


『大日本史』は多くの先人がそれぞれの一隅を照らした志と生き様を、史実に即して述べて、道を明らかにするための史書だった。

■転送歓迎■ R06.10.13 ■ 74,567 Copies ■ 8,701,768Views■
過去号閲覧: https://note.com/jog_jp/n/ndeec0de23251
無料メール受信: https://1lejend.com/stepmail/kd.php?no=172776

__________
■伊勢雅臣の最新刊『大御宝 ~ 日本史を貫く建国の理念』■
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/459409788X/japanontheg01-22/

★★★★★ 自信が持てるようになる!(宮田一智様)
 日本人で良かったと感じました。おすすめです。

★★★★☆ 歴史をまだよくわかってみえない方に読んでもらいたいです。(hiro様)
 伊勢先生のこれまでの研究や活動の凝縮された本だと思います。
 日本人として知っておきたい内容がわかりやすく書かれています。ぜひ、日本の多くの方に読んで欲しい本であると感じました。

★★★★★ ありがとうございます。(アップルハウス様 )
 日本の建国の理念を、わかりやすく記述頂きありがとうございます。
 多くの方にご一読頂きたいとおもいました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■1.明治維新の思想的基盤を作った水戸光圀公

 幕末の志士たちが、いかに楠木正成を敬慕していたか、高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛などの例をJOG(1388)で述べました。

 志士ばかりではありません。明治3(1870)年に来日して4年ほど滞在し、"The Mikado's Empire"(『ミカド』)を著した米人W・E・グリフィスは、同書の中で、「日本の学生や友人に、日本の歴史の中でもっともすぐれているのは誰かと聞いたとき、彼らはすべて楠木正成と答えた」と書いています。

 この幅広い敬慕の念の一因は、神戸の湊川神社境内に建てられた「嗚呼(ああ)忠臣楠子之墓」でしょう。幕末には吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬、真木保臣、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文など、多くの志士たちが参拝しています。また近畿と中国、九州を結ぶ街道沿いの便利な処にあるので、一般民衆の参拝も盛んだったでしょう。

 この碑を建てたのが、水戸光圀(みと・みつくに)公でした。光圀公は第二代水戸藩主で、徳川家康の孫の一人です。光圀公が後に『大日本史』として完成する史書の編纂を始めたのが、1657年30歳の時でした。光圀公は1700年73歳にして亡くなりましたが、史書編纂は水戸藩の事業として続けられ、402巻の史書として完成したのが明治39(1906)年ですから、250年ほども続けられています。

 光圀公はこの『大日本史』の中で、南北朝の時代においては、南朝こそ正統と断定し、その南朝擁護に命を捧げた楠木正成を「忠臣」として顕彰碑を建立したのです。

 光圀公は歴史だけでなく、和歌や国文への関心も深く、万葉集の画期的研究となった契沖の『万葉代匠記』も、光圀公の依頼によって始まり、完成した20巻43冊は光圀公の許に届けられました。さらに本居宣長や神道研究にも多大な影響を与えて、国学隆盛の基礎を築きました。

 そういう意味で、光圀公は明治維新の思想的基盤を作ったと言うことができるでしょう。


■2.江戸時代にも大人気だった黄門様

 現代でも「水戸の黄門様」が、助さん格さんを連れて諸国を巡り、各地で悪代官を退治するという「水戸黄門諸国漫遊記」はテレビシリーズとして長い間、人気を博しました。この物語は史実とは異なりますが、その原型ができたのは明治以降でした。

27018532_s.jpg


 ただ江戸時代においても、光圀公は広く民衆に敬愛された人物でした。江戸城の下馬札(馬を下りる場所を示す立て札)に「当代十善人の第一は、水戸光圀卿」という落書きが張り出されました[沖方下、p197]。

 また光圀公が亡くなった時には、「天下に二つの宝つきはてぬ佐渡の金山水戸の黄門」という落首(ざれ歌)まで登場したといいます。光圀を佐渡金山と同様の「天下の二つの宝」としているのです。「鈴木、p289]

 この人気の原因の一つは、現在では東京ドームに隣接している小石川後楽園を民衆に公開した、という点にもあるでしょう。この庭園は、水戸藩の藩邸の一部でしたが、「君主は民の後に楽しむ」という「後楽」の考えから光圀公が民衆に解放したもので、庶民は多いに喜び、その話を聞いた他の大名たちが次々に光圀を真似て、自邸の庭を開放するようになったのです。


■3.兄の子を養子にして、藩主の座を正統に返す

 しかし、それよりも民衆の心を打ったのは、光圀が父親の意向で弟でありながら水戸藩主を引き継いだのを苦にして、兄の子を養子として後継者にした、という美談でしょう。兄は兄で潔く弟に藩主の座を譲り、また光圀の子を養子として、自らの讃岐国高松藩の藩主の座を譲りました。二人の兄弟の話は、幕閣、諸藩、そして民衆の間で、これこそ「人倫の大義」として広く称賛されました。

 若かりし頃の光圀公は藩邸を抜け出しては、酒や喧嘩にうつつを抜かしていましたが、大きく変わったのは、中国の史書『史記』の伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の物語に深く心を動かされたからです。それはこんな物語でした。

 古代、殷の末期。孤竹(こちく)国の王子・伯夷は、父が三男の叔斉に位を譲りたがっていたことから、その遺言に従い、国を譲って出奔しました。だが叔斉は兄を差し置いて位に就くことを不孝不仁として、兄を追って国を出てしまいました。その結果、残った次男が国を継ぎます。二人は山の中で、薇(ぜんまい)を採って暮らしていましたが、やがて餓死してしまいました。

 兄の子を養子として藩主の地位を譲るという光圀の決断は、藩政を放棄せずに、正統の後継者に戻すという点で、伯夷・叔斉よりもより深い人倫の本道を実践したものと言えましょう。そのまごころが当時の幕閣や諸大名、武士、そして民衆の心を打ったのです。


■4.人物中心の歴史

 こうして見ると、光圀公は常に人倫の大道を明らかにして、それに従った生き方をしよう、との強い志を持っていたようです。その人倫の大道を明らかにするには、歴史の中に生きた人々の生き様を直視し、そこで見習うべき点、見習うべきでない点を明らかにする、という学問が必要だと考えたようです。その気持ちが光圀公を歴史に向かわせたのでしょう。

 歴史と言っても、それまでの我が国の史書は、『日本書紀』以来、すべて、何年に何が起こった、と年代順に出来事を記録する「編年体」でした。この形式では、光圀公が感動した伯夷・叔斉の物語などは収録されません。

 それに対して『史記』は人物中心の「紀伝体」でした。紀伝体とは「本紀」(帝王の伝記)と「列伝」(臣下などの伝記)を合わせた表現で、これに「志」(地理・礼楽などの歴史)、「表」(各種の年表)を加えています。光圀公は18歳頃に史書編纂の志を抱いた時点で、紀伝体の採用を決めていました。

 実際に完成した『大日本史』の構成は以下の通りです。

「本紀」73巻・・・神武天皇から第100代・後小松天皇(室町時代)まで
「列伝」170巻・・・皇后、皇子、皇女、臣下(為政者)、文人、歌人、孝子、義士、烈女、叛臣など
「志」126巻・・・神社、氏族、職官、国別、食貨、礼楽、刑法など
「表」28巻・・・公卿、国郡司など
「目録」5巻

 合計402巻中、「本紀」と「列伝」、すなわち、人物伝で合計243巻と60%強を占めます。各巻で平均5人とすると、登場人物は千人は超えるでしょう。


■5.「人倫を明示せんとする史書」

 冲方丁(うぶかた・とう)の『光圀伝 上中下』は光圀公を主人公とした大変、面白い小説で、その中で若き光圀公を史書編纂に誘った伯父・尾張徳川家の祖・徳川義直が死の直前に光圀を呼び、こう語っています。
__________
 史書に記されし者たち全て、生きたのだ。わしやお前が、この世に生きているように。彼らの生の事実が、必ずお前に道を示す。天道人倫は、人々の無限の生の連なりなのだから。[沖方中、p58]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「彼らの生の事実が、必ずお前に道を示す」とは、「天道人倫」に沿って生きた人々、外れて生きた人々の「生の事実」から、道が明らかになってくる、ということでした。

 そこから、冲方氏の小説では、光圀の求めた史書を次のように記述しています。
__________
(JOG注: 幕府の意向に合わせた編年体の史書に)対して光國が求めるのは「人倫を明示せんとする史書」である。人が人であるゆえんを求め、画一的ではない、様々な観点から人物評価をなす史書である。歴史上の国内の出来事が、正統であったか、正義であったか、といった問題に、鋭く切り込むべきだと思っていた。[沖方下、p58]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 こうした「人物評価」から光圀が理想とした生き方をしたのが、「嗚呼(ああ)忠臣楠子之墓」を建てた楠木正成でしょう。


■6.『大日本史』の厳密な史料批判方法

 こうした正統や正義を問う史書のあり方は、現在の歴史学とは大きく異なっているように見えます。しかし、戦前の日本をすべて罪悪視する自虐史観は、先人の「生の事実」などを見ずに、国全体を「悪」としてレッテル貼りをしています。それは別の形で「正義」を訴えているのです。

 それに対して光圀公は全国での信頼性の高い史料の収集に全力をあげ、それらの比較検討により、考証を進める、という厳密に学問的な方法をとっています。

『大日本史』編纂の実務中心者・安積澹泊(あさか・たんぱく)は、史料批判に関して、「三難ニ要」の説を述べて、光圀の称賛を受けています。三難とは、

(1)古代の正史であっても、編集当時の状況や編集者の個人的事情から、事実を正確に記述していない場合がある。
(2)六国史以降は正史がなく、公家の日記などを使わねばならないが、残欠部分も多いので十分な吟味が必要。
(3)律令の時代など、生活習慣の異なる当世人が安易に議論するのは危険。

 これらを克服するための「二要」とは、
(1)史実を安易に簡略化せず詳しく記述し、
(2)史実を正確に記述することに専念してみだりに文飾をほどこすことのないようにせよ。

 たとえば、国際日本文化研究センター研究部の呉座勇一助教は、江戸時代の一揆に関する実証的な研究書『一揆の原理』で、戦後歴史学の「一揆=階級闘争」という見方に関して、こう批判しています。
__________
 前近代の一揆が『階級闘争』であるという主張は、事実に基づくものではなく、戦後の日本史研究者の願望によるものである。つまり、そう信じたかった、というだけの話なのである。[呉座勇一『一揆の原理』]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 一揆の史実をよく調べもせずに「階級闘争だ」と決めつけることは、「安易な簡略化」であり、「みだりに文飾をほどこす」ことです。『大日本史』の研究手法は、現代の左翼歴史家などよりも、よほど近代的、学問的でした。


■7.「編年体」では人々の志は見えてこない

 現在の歴史教育が陥っている通弊のもう一つが、「何年に何が起こった」という出来事のみを記述する「編年体」です。歴史が「暗記物」になっているのは、このためです。

 『光圀伝』で、光圀は編年体に対して、こう語っています。

__________
この国の史書は、過去の出来事を年代ごとに記す編年の書ばかりだ。評伝もまた小説のたぐいに過ぎず、過去の偉人たちが何をしたかを知るばかりで、なぜそのように生きたかは教えてくれん。[沖方中、p189]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「なぜそのように生きたか」とは、「過去の偉人たち」の「志」を問うことです。「何をしたか」を知るだけでは、歴史の知識を学ぶだけで、頭には入っても心には届きません。先人たちの志に共感することで、初めて歴史は我々の心に届くのです。

 こうして見ると、『大日本史』でなるべく多くの史料を集めて、比較検討した上で史実を追求し、そこから浮かび上がってくる多くの人々の志と生き方から「道」を明らかにする、というアプローチこそが、真の学問としての歴史学の方法である、と言えましょう。


■8.『大日本史』はなぜ多くの先人の生き様を描いたのか?

 こうした学問的方法で、光圀公は千人規模の先人たちの生き様を描き、その中でも特に楠木正成こそ忠臣の鑑として顕彰する碑を建てました。

 一人の人物を志士たちが共に仰ぎ見るのは、共同体の絆を強めるという意味で、望ましいことです。しかし、それだけを目指すなら、『大日本史』でこれほど多くの人物を取り上げる必要はなかったはずです。光圀公はなぜわざわざ、千人規模もの多くの人物を取り上げたのでしょうか?

 光圀公は明の遺臣、朱舜水(しゅ・しゅんすい)を師として迎え、教えを請うていました。舜水は目指すべき社会について、

__________
 賢と能とを選び、仁を講じ、睦を修め(JOG注:和やかな関係を築き)、親子・老・壮・幼・男・女がみなそれぞれにところを得ている社会であり、「禹・湯・文・武・周公の治」がこれに当たる[鈴木、p117]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 として、中国ではこの理想は実現できず、日本なら光圀公が奮励すればできる、と励ましていました。

 万民がそれぞれに処を得ている社会とは、神武天皇以来の民を「大御宝」として、その安寧を祈る理想と同じです[伊勢]。そこでは多くの国民がそれぞれに志を得て、自分の能力や適性を発揮し、それを通じて、互いに思いやりの行為をし合う、すなわち「仕合わせ」を築きます。

 我が国はそのような共同体として、無数の先人がそれぞれの志を抱いて、それぞれの処で、共同体の維持発展のために尽くしてきました。それらの先人の志を明らかにして、継承することが、人々の生きる道を見つける方法です。

 とすれば、そのような国における歴史学とは、可能な限り多くの先人を取り上げて、その志と生き様を明らかにすることなりましょう。それぞれの国民は各自が照らすべき処に見合った先人を見つければ良いのです。光圀公の『大日本史』はそうした、まさに我が国の国柄に合致した史書であると言えそうです。
(文責 伊勢雅臣)

■おたより

■水戸学の本流は光圀公から(厳彦さん)

 水戸光圀公の業績を知ることができ大変参考になりました。 研究の成果をこれほど広く、人に知ってもらうのはどれほど有益か分かりません。 幕末の吉田松陰は水戸藩の藤田東湖に大いに影響を受けたと聞いています。 水戸学の本流は光圀公に始まったといえるでしょうか。

■伊勢雅臣より

 重要なご指摘、ありがとうございます。

 ご指摘のように、水戸学は光圀公の『大日本史』から始まっていますが、鹿島神宮、香取神宮など、古くからの敬神の土地柄も影響していると思われます。水戸学の流れについては、弊誌で今後、追々、取り上げていきます。

■リンク■

・JOG(1388) 楠木正成が遺した日本人の生き方
 自分の人生を何かのために燃やし尽くした人間だけが、笑って死んでいける。
https://note.com/jog_jp/n/n2784644ddda4

・伊勢雅臣『大御宝 - 日本史を貫く建国の理念』、扶桑社、R06
 http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/459409788X/japanontheg01-22/

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・冲方丁『光圀伝 (上・中・下)』★★★、角川文庫、H27
 http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B009SKXYGK/japanontheg01-22/
 http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B009SKXYJW/japanontheg01-22/
 http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B009SKXYH4/japanontheg01-22/

・鈴木暎一『徳川光圀』★★、吉川弘文館、H18
 http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4642052372/japanontheg01-22/


■伊勢雅臣より

 読者からのご意見をお待ちします。本号の内容に関係なくとも結構です。本誌への返信、ise.masaomi@gmail.com へのメール、あるいは以下のブログのコメント欄に記入ください。
http://blog.jog-net.jp/

この記事へのコメント