No.1392 泰平日本と強圧的な黒船艦隊の開国談判
250年の泰平を過ごした江戸日本は、黒船艦隊の強圧的談判によって、ようやく開国した。
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■1.堀の流暢なオランダ語に驚いた異国士官
嘉永6(1853)年6月3日(旧暦)、鉄製の巨大な黒船の下に小舟を寄せると、与力の中島三郎助は見下ろしている士官らしい異国人に、梯子(はしご)を下ろすよう手真似しました。しかし、士官たちは見下ろしているだけで、何もしません。これまで多くの異国船が来航していますが、日本側の役人の乗船要求を無視した例はなく、中島は表情をこわばらせました。
中島はオランダ通詞の堀達之助に、何か言葉をかけるように命じました。この船は前年に長崎のオランダ商館から報告のあったアメリカ船隊に違いありません。
堀はオランダ語の会話と文章の翻訳には精通していますが、英語は一応読解はできても、会話はカタコトしかできませんでした。しかし、長崎で習い覚えた数少ない英会話を反芻し、士官たちに向かって「私ハオランダ語ヲ話スコトガデキル」と、英語で言いました。
日本に来る異国船は、外国語はオランダ語しか通用しない事を知っていて、オランダ語の通訳を乗せているはずです。堀の英語が通じたらしく、やがて、甲板上に30歳くらいの男が姿を現して、「私ハ、オランダ生レダ。名ハ、アントン・エル・シー・ポートマン」と言いました。
中島は堀の通訳を聞くと「いずれの国からどのような目的を持って来航したかをたずねよ」と命じました。堀はポートマンに自分の姓名を名乗り、中島の質問をオランダ語で伝えました。ポートマンの顔に、堀の流暢なオランダ語に驚いたような表情が浮び、高級士官らしい男に英語で通訳しました。
■2.覚悟の上の嘘
そこから、堀とポートマンのオランダ語を通じて、談判が始まりました。「来航の目的は?」と尋ねると、「アメリカ大統領からの親書を日本国王に渡すためである」と言います。しかも、「我が長官は、日本の最高位の者としか面談せぬ。速やかに帰れ」とそれ以上の談判を拒絶します。
中島の顔に憤りと困惑の色が浮かびました。堀は、このまま帰ったら、中島は役目を果たせぬかどで譴責を受ける、と考えて、一計を講じ、ポートマンにこう言いました。
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このお役人様は、貴艦の長官と会談するに適した高位の方である。副奉行様だ。幕府に、貴艦のことについて報告しなければならぬ義務を持ちだ。したがって乗艦を欲する。[吉村、p26]
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一通詞の立場でこのような嘘をつき、あとで国家間の問題となったら、罪を問われる恐れがありましたが、それは覚悟の上でした。
ポートマンの通訳を聞いた士官たちは、少し話合ったあと、長官の指示を受けに行ったらしく、ようやく「それでは副奉行と通弁の二人だけの乗船を許す」と言いました。
中島と堀が縄ばしごを登って甲板に立つと、水兵たちの鉄砲の先につけた短剣を突きつけられながら、将官の部屋に通されました。中島が日本の国法に従って、「長崎に回航せよ」と言うと、「大統領は江戸に行って、親書を渡すように命じられた。断じて長崎には行かぬ」と断ります。何度か押し問答をしても、全く動じません。
しかも、日本の小舟が多数取り巻いているのを見て、「はなはだ無礼である。もしも武装船がこのままの状態であれば、武力によって追い払う」とまで言います。黒船側のあまりに強硬な態度に、中島は「明朝、私より上級の役人が来て、話をするであろう」と言って、艦を離れました。
奉行所に戻った中島は、奉行戸田伊豆守に報告しました。戸田はこれまで来航した異国船とはまったく違って乗船まで拒んだ、ということに、容易ならざる相手と、顔をしかめました。そこに黒船の大砲の音が響きました。戸田は「時を告げる合図だ。うろたえぬよう皆につたえよ」と指示しました。しかし、その砲声は日本側への威圧のように聞こえました。
■3.オランダからの事前情報
堀家はオランダ通詞の名家として知られ、その八代目の達之助は、長崎でオランダ商館との間の通訳、オランダ書の和訳、日本文のオランダ訳の仕事していました。異国船の出没がしきりになってからは、江戸詰になりました。さらに前年、嘉永5(1852)年には江戸湾の入り口に位置する浦賀詰めとなり、黒船来航に出くわしたのでした。
この年、新任のオランダ商館長クルチウスが着任し、オランダ国王の命令によるオランダ領東インド提督の公文書を持参していました。そこに、「アメリカが軍艦を日本に派遣して通商を要求する」という噂がヨーロッパ一帯に流れていることを知らせていました。続けて、このような趣旨が書かれていました。
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アメリカは強大国で、日本に派遣される軍艦は数隻で、その中には蒸気艦もふくまれ、強圧的な行動に出るか、またはおだやかな態度をとるかは不明であること。世界情勢からみて、日本のみが鎖国政策をとるのは孤立化することであり、他国との接触を拒めば必ず紛争が起り、その折には武力行使による戦争となるのはまぬがれない。[吉村、p18]
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日本とアメリカが戦争を始めれば、オランダの対日貿易もとばっちりを免れません。それよりも、現在のオランダの独占的地位を失っても、アメリカとも通商を開いて、平和を維持した方が良い、という損得勘定でしょう。この情報から、幕府はアメリカ船の来航は知っていましたが、これほど「強圧的」な行動に出るとは、予想できませんでした。
■4.7年前のアメリカ使節団
今回の黒船の「強圧的」な態度は、日本側のそれまでのアメリカ人に対する印象を覆すものでした。7年前の弘化3(1846)年、2隻のアメリカの帆船が浦賀にやってきました。
アヘン戦争に敗れた清国と、イギリスと同様の不平等条約を結んだアメリカ使節団が帰りがけに日本に立ち寄って、開国してアメリカと貿易をする意図があるか、探りにきたのです。両船合わせて100門以上の大砲を持つ重装備に、幕府は危ぶみながらもこれを拒絶しました。すると司令官ビッドルは素直に承服し、日本を去ったのです。
その際に、日米の兵どうしの小競り合いがあり、激怒したビッドルは戦いも辞さず、という態度をとりました。この時に、堀は何度も奉行所と艦の間を行き来してビッドルをなだめ、立ち去らせることに成功しました。この時の経験は、アメリカ人は日本側の指示に従う、好感のもてる国民である、という印象をもたらしました。
その印象を完全に覆したのが、今回の黒船艦隊の態度でした。当然、司令官ペリーはビッドルの経験を学んでいたはずです。そして、そのような友好的な態度では、日本の鎖国の扉はこじ開けられない、と決心していたのでしょう。
■5.「返答なき場合は、十分な武カをもって江戸に上陸し」
翌6月4日、中島と同じく与力の香山栄左衛門が、堀と共に小舟で黒船に近づきました。堀は「本日参られたこのお方は、浦賀の御奉行様である」と偽り、乗船を許されました。年配の士官が現れ、ポートマンは「当艦のブキャナン艦長である」と紹介しました。
香山は日本の国法を楯に、長崎へ行くよう求めましたが、ブキャナン艦長は「あくまで長崎行きを求めるのなら、これ以上話し合うことは無意味である。本国の命令にしたがい、江戸に上陸し、国王に直接手渡す」と言い張ります。それでは戦争になるのは必定です。
香山は、「ここで親書を受け取るには、江戸の御指図が必要である。江戸にお伺いを立てるのに、しばし待っていただきたい」と述べました。ブキャナンは「江戸との往復だけで4日必要」と聞いて、こう答えました。
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本日より四日目の昼すぎまで待つ。それまでに返答なき場合は、当方は自由に振舞う。十分な武カをもって江戸に上陸し、使節から直接親書を日本国王に手渡す。[吉村、p37]
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香山が奉行所に戻り、戸田に報告していると、再び、砲声が轟き、建物が震えました。あきらかに日本側を威嚇していると感じられました。
■6.黒船1隻の江戸接近
翌々日6月6日、4隻の米艦から一艘づつの大型ボートが下ろされ、連なって江戸の方向に進み始めました。一隻の蒸気艦が黒煙を吐きながら船側の外輪を回転させて、それらのボートを護衛するように北上し始めました。
すでに黒船の噂は江戸中に広まっており、幕府に命ぜられた各藩の藩士たちが沿岸防御のために陣取っています。黒船がこのまま江戸に近づけば、大混乱を起こすことは必定です。沿岸警護の各藩からは、約400艘の軍船がボートと蒸気艦を追うために繰り出されました。
戸田奉行は、香山に堀と共に使節の乗る蒸気艦に赴いて、江戸に向かう船隊を引き返させるよう要求せよ、と命じました。二人は使節の乗った艦に赴いて、香山が「ただいま、黒船一艘と艀(はしけ)四艘が江戸の内海へ断りなく乗入れたのは、まことに不法である。何故、そのような行動をとるのか」と問い詰めました。
ポートマンは、艦長の返答を聞いてきて、「もしも親書を日本側が受け取らない場合は、江戸に直接乗り入れる予定なので、海岸の深浅を図るためだ」と答えました。堀の通訳を聞いた香山は、落ち着いた口調でこう要求しました。
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親書を受取るか否かまだわからぬうちに、江戸の内海に乗入れれば、何事ならんと警備の兵は殺気立つ。これは貴艦側でも望まぬことであろうから、そうそうに引返すよう御指図いただきたい。[吉村、p56]
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ポートマンは艦長の返事を聞いて、「艦長は承諾した。これから旗旒(きりゅう)信号によって引き返すことを命じる」と伝えました。
■7.幕府、親書受領を決定
幕府は5日に浦賀からの急報に接して、要職の者が総登城して、評議を重ねました。早朝から深夜まで評議を重ね、その間には、上述のように軍艦一隻が江戸に向かったという報も入りました。
あくまで「親書の受け取は国法に従って長崎で」と主張すれば、戦争になるのは必至で、そうなれば軍艦もなく大砲も不足している日本が勝つことなど到底できず、たとえ長期戦に持ち込んでも、アメリカ艦隊は伊豆の島々など離島を占領することは確実でしょう。
評議の結果、アメリカ側の要求を入れて、親書を受領することとしました。その決定を知らせる早馬が7日に浦賀奉行所に着き、ただちに香山は堀と共に、ブキャナン艦長を訪ねました。親書の受け取りは、浦賀近くの久里浜で行うことが合意されました。
香山は一度、奉行所に戻って、戸田に報告すると、午後、再び、ブキャナン艦長を訪問して、具体的な打ち合わせをしました。この対談はおだやかな雰囲気で進められ、その後は艦側からブランデーとウイスキーが出されました。香山は快くそれを受け、堀もブランデーを少し呑みました。
■8.日本を未開の国と思い込んでいたのに
その後、士官が従兵に命じて、大きな地球儀を持ち込んで来ました。堀は艦長はじめ士官たちが、自分たちが地球儀に驚くのを期待しているのを見てとりました。彼らは日本を未開の国と思い込んでいたのです。
そこで堀はおもむろに地球儀に近づくと、慣れた手つきでそれを回し、ワシントンの地点を指さして「ワッシントン」と言い、香山に向けて「メリカの都」と付け足しました。香山がうなずくと、堀は、ポートマンに「政治の首都」と言い、さらにニューョークを指さして「経済の首都」と言います。
堀は、なおも地球儀を素早くまわして、イギリス、フランス、デンマークその他ヨーロッパ諸国を一つずつ指さしてその国名を口にしました。士官たちの顔から、薄笑いの表情が消えていました。
香山は調子を合わせて、「貴国に於ては、岬を横切る舟路も作っておられると言うが、、、」と問うと、堀はそれがパナマ運河の工事であることに気づいて、それを通訳し、しかも運河は「キャナル」と英語で言いました。すでに士官たちは呆気(あっけ)にとられたような表情が浮かんでいました。
士官の一人がポートマンに低い声で何か囁(ささや)き、うなづいたポートマンが「機関室をお見せしよう」と言いました。一行は機関室への梯子をおりました。士官の一人が蒸気機関に手をおき、堀たちに食い入るような眼を向けました。驚きを期待しているのです。
しかし、堀はオランダを通じて入ってくる洋書で、蒸気機関や蒸気船の図を飽きるほど眼にしており、また薩摩藩では蒸気機関の試作も始めていました。香山もそのような図面を見たことがあるらしく、驚いた風もなく機関にわずかに手をふれただけでした。「それでは、これにて、、、」と香山は丁寧に頭を下げると、梯子を上りました。
迫り来る西洋列強に対して、日本が鎖国を続けていたのは、西洋の技術や国際情勢に関する知識が欠けていたからではありません。江戸時代の日本人は、オランダを通じて、十二分な知識を得ていました。しかし、260年も続いた徳川の泰平のもとで、自ら開国できず、アメリカの異様な軍事的威圧のもとで開国させられました。
独裁者が生まれにくく、民意で動く我が国の政治状況では、こういう形で誰の目にも明かな外圧を加えられないと、根本的な変革はできないのでしょう。この状況は、戦後80年も平和が続いた現在も同じようです。
しかし、国民全体が開国と(「攘夷」という名の)独立維持が必須だと理解すると、一丸となって走り始めます。これが、開国からわずか2/3世紀で、国際連盟常任理事国という世界の指導的大国にのしあがった明治日本の原動力でした。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
・テーママガジン「迫り来る西洋列強 ~ 幕末日本の対応」
幕末に西洋列強が来襲した時に、江戸幕府とそれに続く明治政府はどのように対応したのでしょうか?
https://note.com/jog_jp/m/ma9132af01a2a
・JOG(717) 黒船来航の舞台裏
アメリカは中国市場での権益を確保するために、太平洋ルートの開拓を目指した。
https://note.com/jog_jp/n/na54f8c162b7f?magazine_key=ma9132af01a2a
・JOG(149) 黒船と白旗
ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界システムへの屈服を要求していた。
https://note.com/jog_jp/n/n9fde15560fc7?magazine_key=ma9132af01a2a
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
・吉村昭『黒船』★★★、中公文庫、H6
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4122021022/japanontheg01-22/
■前号『水戸光圀公 ~ 多くの先人の志と生き様を描いた『大日本史』』へのおたより
■水戸学の本流は光圀公から(厳彦さん)
水戸光圀公の業績を知ることができ大変参考になりました。
研究の成果をこれほど広く、人に知ってもらうのはどれほど有益か分かりません。
幕末の吉田松陰は水戸藩の藤田東湖に大いに影響を受けたと聞いています。
水戸学の本流は光圀公に始まったといえるでしょうか。
■伊勢雅臣より
重要なご指摘、ありがとうございます。
ご指摘のように、水戸学は光圀公の『大日本史』から始まっていますが、鹿島神宮、鹿取神宮など、古くからの敬神の土地柄も影響していると思われます。水戸学の流れについては、弊誌で今後、追々、取り上げていきます。
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