No.1414 大久保利通 ~ 近代日本建設の指揮者
大久保利通は無私の心で、多くの人材を抜擢して、明治日本の世界史的発展の基盤作りを指揮した。
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「ニッポンだいすき勉強会」
現役の中学社会科教師が、生徒に大人気の歴史授業を公開しました。
1時間目 なぜ日本は戦争したのか?
2時間目 世界は日本の戦争をどう評価しているのか?
3時間目 「東京裁判」は公正・公平な裁判だったのか?(前編)
4時間目 同・(後編)
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■1.大久保利通って、何をした人?
伊勢: 以前から、この講座で言っているように、幕末の我が国は西洋列強の侵略の危機に直面していた。しかし、日本は有色人種の国として初めて近代化に成功し、独立を守った。そして開国からわずか70年足らずで、国際連盟の常任理事国、つまり世界の指導的大国の一つとなった。これは世界史でも特筆すべき偉業だね。
そして、多くの先人がそのために貢献してきた。日本をオーケストラに例えれば、各分野の先人たちが個々の楽器を演奏する「演奏者」にあたる。でも演奏者たちを率いて、ハーモニーを生み出して名演奏を実現した指揮者がいた。それが大久保利通だった。
花子ちゃんには歴史の教科書で、大久保利通についてどう書いてるか調べてきて、と頼んでおいたけど、どうだったかな?
花子: 私の中学校で使っている東京書籍版では、以下の5カ所に登場していました。
1)幕末に「薩摩藩では西郷隆盛や大久保利通が実権をにぎり」
2) 1871(明治4)年の「大久保利通などが参加した大規模な岩倉使節団」
3) 「大久保の帰国後」の征韓論争
4) 征韓論をめぐる政変の後「大久保利通が政府の中心となり」
5) 「1878年に大久保利通が暗殺されると」
こういう感じで、あちこちで名前は出てくるんですけど、一体どんな人で、何を考えていたのか、全く書かれていないんです。
伊勢: あちこち名前が出てくるというのは、それだけ日本の近代化の中心人物だったからだね。オーケストラの演奏を目をつぶって聞いていたら、個々の楽器の音しか聞こえず、指揮者の役割は分からない。しかし、本当に素晴らしい演奏を理解しようとしたら、目を見開いて、指揮者が何を目指し、どう指揮をしたのか、を見なければならないんだ。
■2.遺産は借金数億円
花子: そもそも大久保利通ってどんな人物だったんですか? 歴史の先生に聞いたら、「冷徹な独裁者」と言っていましたけど。
伊勢: そのイメージは一般的だけど、古い歪んだものだ。今回、大久保利通の伝記を調べていて、私が深く感銘を受けたのは、この人が一途に自分の志に生きた人だったということだった。それは亡くなった時の、こんなエピソードから窺える。
大久保の死後、遺族が遺産を確かめてみると、借金が8千円余もあった。現在の金額に換算すれば、数億円というところだろうね。しかも家も土地もすべて抵当に入っていた。これは公共事業の予算不足などを、大久保が秘かに個人で借金をして穴埋めしたものだった。
花子: それでは遺族は暮らしに困ってしまいますね?
伊勢: そう、宰相の遺族を路頭に迷わせるわけにもいかないので、政府は大久保が生前に鹿児島県庁へ「学校費」として寄付した8千円を回収し、さらに8千円の募金を集めて、計1万6千円を遺族に贈ったんだ。
大久保自身は「冷徹な独裁者」なんて悪評を気にせずに、黙って寄付をしたり、公共予算の穴埋めをしたりしていたんだね。自分の財産や名声など全く意に介さず、自分の志のために一生を捧げたんだ。
■3.大久保の志は?
花子: その一生をかけた志とは、どのようなものだったのでしょうか?
伊勢: それは、大久保がどんな人物を尊敬していたかを見れば分かる。大久保は岩倉使節団でプロシア、今のドイツだけど、に行った時、ビスマルクの話に感激し、西郷隆盛あてに「ビスマルクは最大の人格者」と書き送っている。
花子: 大久保はビスマルクのどんな所に感激したんですか?
伊勢: ビスマルクは「わがプロシアは、貧弱な国であった」と語り、「国際社会は表向き親睦を重んじているが、実際には強国が弱国を見下している」と指摘した。そして「小国が独立を守るには、実力をつけるしかない」と断言したそうだ。
ビスマルクは「プロシアの国力をつけて、他国と対等に外交のできる国にしたいと数十年、努力してきた」と打ち明け、そのためには他国からどれほど悪評を受けても気にしなかった。
プロシアと同様、西洋列強の脅威の下にあった日本も独立を守り、西洋列強と対等な外交のできるようにするためには、実力をつけるしかない、と大久保は覚悟したんだね。大久保の生き様は、そのままビスマルクの生き様に重なる。自分の地位や財産、名声などに頓着せず、ひたすら日本の実力を培った。それが「富国強兵」という道だった。国を富まし、その富によって強い軍隊を持つことだ。
■4.大久保は近代国家の3つの基盤を作り上げた
花子: 大久保は「富国強兵」のために、どんな政策をとったんですか?
伊勢: まずは日本国自体を近代国家にしなければならない。そのためには以下の3つの基盤が必要となる。
・廃藩置県: 江戸時代の封建体制で全国が300もの半独立の「藩」に分かれていたのを、一つの中央政府のもとの「府県」とする。
・四民平等: 士農工商の身分制度のもと、武士が特権的地位を占めていたのを、すべて平等にして、同じ義務と権利を持つ国民とする。
・殖産興業: 国際貿易体制の中で、自立的にやっていける近代的産業を興す
この3つの方策によって、「富国強兵」が実現する。大久保の指揮者としてすごい所は、これらの近代日本の3つの基盤を、多くの人材を抜擢し、活躍させて作り上げた、という点だね。
■5.「廃藩置県」を断行した山県有朋を後押し
花子: 具体的に、どんな人物にどんな活躍をさせたのですか?
伊勢: たとえば、廃藩置県は大久保が早くから唱えていて、それに実際に取り組んだのが山県有朋だった。全国の藩を廃止するという荒療治で一番心配だったのは、強力な薩摩藩を掌握する西郷隆盛が賛成してくれるかどうかだった。山県は「西郷閣下が賛成してくださらねば、差し違えるまで」と捨て身になって、西郷の賛意を得た。
大久保は、山県が命を懸けて廃藩置県実現のために奔走した志を高く評価した。山県はその後も、四民平等の理想のもと、徴兵制導入に取り組むが、武士も農民・町人も大反対だった。それを押し切ってこの制度を導入できたのも、大久保の後押しがあったからだろう。
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JOG(1396) 世界史に遺る「明治の奇跡」の原動力
10年たらずで幕藩体制を中央集権国家に変革し、民主化革命、自由化革命、人材登用革命を成し遂げた明治の先人たちの苦闘。
https://note.com/jog_jp/n/na37d8d6ce944
JOG(1399) 山県有朋 ~ 独立、平和、国際協調を目指して
山県は「軍国主義の邪悪な天才」ではない。明治日本が独立を維持し、国際社会で名誉ある地位を築いた立役者だった。
https://note.com/jog_jp/n/n7f0ebdf233ae
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廃藩置県と徴兵制が基盤となって、日本の近代的な国軍建設が進む。山県は「陸軍の父」と呼ばれているが、その後の大山巌、児玉源太郎、谷干城など後の陸軍の中心的な人物も、大久保の抜擢を受けて、陸軍の育成に貢献した。
海軍も大久保の後押しした人材が作り上げた。海軍省設立などで日本海軍創設期の基礎を作った川村純義、「日本海軍の父」と呼ばれ、後に初代連合艦隊司令長官として日清戦争での勝利に貢献した伊東祐亨(すけゆき)も、大久保が抜擢した人材だね。
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JOG(976) 海の武士道~伊東祐亨と丁汝昌
連合艦隊司令長官・伊東祐亨の清国北洋艦隊提督・丁汝昌への思いやりは世界を驚かせた。
https://note.com/jog_jp/n/n785a875c6fb1
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武士階級の特権剥奪に伴い、士族の不満が吹き出して、佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、そして西南戦争が起こる。四民平等を断行する以上、誰が政権を担当しても、ある程度の反乱は避けられなかっただろう。そして大久保が抜擢した人材たちが中心となって、なんとか収めることができた。マグマが噴出した後は、明治政府は真の中央集権国家として歩み始めるんだ。
■6.「殖産興業」を主導した大隈重信の後押し
花子: 「廃藩置県」と「四民平等」、それを基盤にした「強兵」の方は分かりましたけど、「富国」はどうでしょうか? 同じように優秀な人材を育てて、活躍させたのですか?
伊勢: その通り。その一人が大隈重信だね。大隈は大久保の薫陶を受けて、その事務的才能を開花させ、殖産興業で目覚ましい活躍をした。富岡製糸場などの官営模範工場をいくつも建設し、それらにより輸出産業を育てた。同時に、国立銀行を通じた政府資金の投入により民間事業者の育成に努めた。さらに通貨制度の確立、鉄道建設など、経済的インフラの整備も強力に進めた。
インフラと言えば、日本郵便制度の根幹をつくった前島密、教育近代化に貢献した森有礼、警察機構を作りあげた川路利良なども、大久保が登用して活躍させた人材だね。
花子: そんなにいろいろの分野で多彩な人材を活躍させて、近代国家を作りあげたんですね。大久保はあらゆる分野でそんなに博識だったのでしょうか?
伊勢: 大久保の部下として、勧業寮(現在の経済産業省と農林水産省を併せた担当部署)をまかされ、手腕を発揮した河瀬秀治は、大久保のこんな発言を回想している。
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諸君は、決して私一個に使われるとか、薩長に使われるとか思わずに、国家の役人である、国家の事務を掌(つかさど)るというつもりで自任してやって貰わなければならない。かつまた、細かいことは自分は不得手である。事務の方は万事諸君に一任するから、力を尽くしてやって貰いたい。その代わり、責任は我輩が引き受けてやる。[加来、p328]
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花子: へえー、かっこいい理想の上司ですね。
伊勢: 大久保の薫陶を受けて、後の初代総理大臣となった伊藤博文が、岩倉使節団で大失敗したことがあった。初めに訪問したアメリカの歓迎ぶりに、伊藤は「不平等条約の改正に脈がありそうです」などと思い込んだ。そこで正式の外交交渉ができるように、天皇の委任状をとりに大久保と伊藤が日本に帰って、4ヶ月も使ってしまった。しかし、そのあげくに条約交渉は失敗。
伊藤の長州閥の親分、木戸孝允は伊藤を厳しく責めたけど、大久保はひと言も愚痴をこぼさなかったという。そんな上司を持てば、だれでも、一生懸命、その期待に応えようという気になるよ。
■7.自由民権運動の思想家・中江兆民も「大政治家」と讃えた
伊勢: こうした史実から、近年は歴史研究家の中では、日本の近代化を推進した中心人物として、大久保の再評価が進んでいる。国士舘大学の勝田政治教授がその先駆者で、『大政事家 大久保利通 ~ 近代日本の設計者』という著書を書かれている。「大政事家」とは今の言葉で言えば「大政治家」で、自由民権運動の思想家・中江兆民(ちょうみん)が大久保をそう呼んだ。
花子: 自由民権運動と言ったら、教科書では「大久保の政治を専制政治であると非難し」と書かれていました。その自由民権運動の思想家が、専制政治の中心人物とされた大久保利通を「大政事家」と呼ぶことは、なんか矛盾してるんでは?
伊勢: そう、そこに今までの歴史学の歪みが現れている。中江兆民に関しては、大久保との間でこんなエピソードが残されている。
明治4(1871)年の岩倉欧米使節団で、留学生も同行することが決まった時、当時25歳で無名の書生であった兆民は、いきなり大久保を訪問して、留学生に入れてくれるよう直談判をした。
相手は参議という、今で言えば大臣クラスだ。「面会すら断られるだろう」と思ったが、思い切って名刺を差し出すと、何と会ってくれるという。兆民は大久保の前でフランス社会に関する熱弁を振るい始めたが、相手は目を閉じてしまう。兆民は高官の驕りの居眠りとみて怒った。
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「閣下、いかに私が若輩者とはいえ、眠って人の話を聴くということがありましょうか」
怒り心頭に発した兆民は、席を蹴(け)たてて抗議した。
すると大久保は、瞬時に目をあけて、
「いやすまぬ。私が目をあけていては話しづらかろうと思うたものだからのう」
申し訳なさそうに即答したという。これにはさしもの兆民も恐れ入った。兆民が大久保の助力もあり、留学生に加えられたことはいうまでもない。[加来、p299]
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花子: へー。大臣級の人物に怒って文句をぶつける青年・兆民もたいしたものですけど、相手が話しやすいように目をつぶってじっと聞いていた大久保利通も、相当な人格者ですね。
伊勢: 25歳の無名の書生に対しても、こういう心づかいまでして話を聞き、留学生に加えたからこそ、後の自由民権運動の思想的指導者が育ったんだね。その兆民は、このエピソードの30年も後、明治34(1901)年、死の直前に書いた『一年有半』で、「大政治家」として欧米や中国の政治家10人に並べ、日本では徳川家康と大久保利通の二人だけを加えている。
花子: でも、なんで大久保はずっと政治の中心でいられたんでしょう? いくら大政治家でも、その地位を長期間、守るには、それだけの工夫も努力も必要ですよね。
伊勢: もちろん、政府内の権力闘争もあった。しかし、大久保がひたすら国の事を思う私心のなさは、周囲の皆が感じとって、それで多くの人の力を集めることができたのではないかな。
それと、明治天皇が一貫して、大久保を信任しつづけたことが大きい。大久保は台湾出兵、士族の反乱、そして西南戦争と次々と襲いかかってくる危機を乗り越えなければならなかったが、明治天皇は大久保信任の姿勢を崩されなかった。何としても日本を強い立派な国にしなければ民の仕合わせも実現できない、という大久保の思いは、まさに明治天皇の大御心を体したものだっただろう。
こういう指揮者が、幕末から明治初期の、国家の一番難しい時に登場したというのは、なんともありがたいことだった。そして、こういう人物を生み出したのが、「大御宝を仕合わせにしたい」という皇室伝統の祈りだったんじゃないかな。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
・テーマ・マガジン「近代日本、荒海への船出」
鎖国を解いて、日本人は大船を作り、大洋を航海する技術を身につけます。それが、独立を維持し、世界の列強に伍してやっていく道でした。
https://note.com/jog_jp/m/m6ea37bf20070
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
・加来耕三『不敗の宰相 大久保利通』★★★、講談社+アルファ文庫、H6
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・勝田政治『大政事家 大久保利通 近代日本の設計者』★★★、角川ソフィア文庫、H27
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■伊勢雅臣より
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■編集後記
小田原市の北にある南足柄市にある「春木径(はるきみち)」という桜の名所に行ってきました。富士山を背景にした川沿いの美しい桜並木です。お天気もよく、多くの市民が散策していました。
ここは富士写真フイルムの創業者・春木榮氏が平成12(2000)年に101歳で逝去されたのにちなみ、同社と南足柄市で101本の「春めき(旧足柄桜)を植えたとのことです。富士写真フイルムという立派な会社を残されたのも偉大な業績ですが、桜並木で「春木榮」氏を偲ぶとは、なんとも粋な顕彰だと感じ入りました。
■講演会・勉強会情報
・「安定的皇位継承のための法制化を求める国民大会」
日時:令和7年4月7日(月)15:00~16:30(開場は14時予定)
会場:衆議院第1議員会館「大会議室」(地下1階)
提言:櫻井よしこ氏、谷口智彦氏
申込:https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLScHcR-B3-tbmE0c0cFT3oweZwS3jm6GiWX95Ty-7E1qQbWJJQ/viewform?pli=1
・「中朝事實」 勉強会
日時 4月14日(月)午後1時 ~
会場 かながわ県民センター 603会議室
内容 山鹿素行が著した歴史書『中朝事實』の勉強会 今回は、附録の「或疑(わくぎ)」を勉強します。
講師 佐藤健二氏(素行會代表)
参加費 1000円 テキスト準備の都合上、初参加の方は kingarmy00@ybb.ne.jp までお知らせください
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