No.1425 豊臣秀吉 ~ 日本人の持った良いところを一人に集めた人
秀吉は「一君万民」のもと、日本人はみな兄弟であり、互いに助け合うべきという理想を追求した。
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■1.司馬遼太郎の秀吉像:キリスト教の「愛」で「天下取り」?
伊勢: 花子ちゃん、この前、豊臣秀吉について、とっても面白い小説を読んだよ。
花子: 豊臣秀吉? 先生も時には通俗的な本も読まれるんですね。
伊勢: 今まで、秀吉に関する本は何冊か読んだけど、ここに登場する秀吉は、今まで描かれた秀吉とは全然、違うんだ。この本の帯には「日本人の持ったあらゆる偉いところ、良いところを、一人に集めた人」とある通り、素晴らしい人柄をもった秀吉が活き活きと描かれている。読み始めたら、面白くなって止まらなくなり、上下2巻、合計500ページ以上あるのを、二日で読み終えた。
著者の加藤武雄という人は、私も知らなかったけど、戦前、戦中、戦後を通じて、小説を90冊以上も書いた大作家だね。
花子: 秀吉をどんなふうに描いているのですか?
伊勢: 戦後の、たとえば、司馬遼太郎などと比べてみると、全く違う事がよく分かる。司馬遼太郎は『新史 太閤記』で、秀吉をこんなふうに描いている。秀吉の軍師・黒田官兵衛はキリシタンで、時々、秀吉にもキリシタンにならないか、と誘いをかけていた。
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愛のはたらきは広大であり、これを持てば人間小なりといえども神に似たる働きを致しまする、と官兵衛はかねがね説いている。・・・
──官兵衛は、よいことをいう。
とおもったのは、その愛を意識的にもてばこの国を統一するもっとも大きなエネルギーになりうるのではないか。敵にさえ愛をあたえ、恨みを買わねば天下の人心は翕然(きゅうぜん JOG注: 多くのものが一つに集まる事)としてこの藤吉郎にあつまるのではないか。[司馬、p40]
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伊勢: キリスト教の愛を使えば、天下は自分のものになるのではないか、という。こういう表現では「愛」は手段で、目的は「天下取り」だと読者は受けとめてしまう。
■2.加藤氏の秀吉像「えらくなって、世の中の人々を幸福にしてやりたい」
これに対して、加藤武雄氏の描く秀吉は、こう語っている。
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えらくなりたい。自分のためにえらくなるのではない。世の中のためにえらくなりたい。えらくなって、世の中の人々を幸福にしてやりたい。
それが藤吉郎の願いであった。[加藤上、p63]
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伊勢: こちらの方が秀吉の真の志に近いということは、秀吉が権力を握ってから、検地と刀狩りをしたことから分かる。争いの原因となる土地の所有権を明らかにし、また農民から武器を取り上げて、平和を守ろうとしたのだからね。
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JOG(1368)秀吉は国民の道義心再生で天下統一を成し遂げた
道義心の再生によって、欲得と弱肉強食の戦国時代から平和な国家統一に成功した。
https://note.com/jog_jp/n/nf632434164b6
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花子: 司馬遼太郎の描く秀吉は、権力追求のため愛を使おう、と考えているのに対し、加藤武雄の描く秀吉は「人々を幸福にするために、偉くなりたい」と言っているのですね。手段と目的が逆転していますね。
伊勢: そう、加藤武雄の秀吉の方が、史実に近いと思うし、また中学生などには、こういう秀吉を学んで欲しいと思うんだ。
■3.信長「朝廷の御威光を輝かして日本国中を安らかな御代に」
花子: でも、秀吉は、どうして「世の中の人々を幸福にしてやりたい」と思うようになったのでしょうか?
伊勢: それには、まず主君であった信長の尊皇心を見ておかなければならない。この小説の中で、信長はこう語っている。
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おれは、足利氏に代わって将軍になろうなどというつもりはない。おれは、朝廷の御威光を輝かして日本国中を安らかな御代にかえしたいと思うばかりなのだ。・・・
これも、亡き父上のお志なのだ。亡き父上は、常に心を朝廷に寄せ奉り、いかようにもして十分の力を朝廷にお尽くし申し上げたいと、それをのみ念じておられたのだ。[加藤上、p122]
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花子: 信長は「天下布武」をスローガンとして、全国の武力制覇を目指していたと考えていました。
伊勢: それこそ、戦後の転倒した歴史観だね。近年の歴史家の研究でも、織田信長の「天下布武」とは将軍による秩序回復を意味していて、京都に上って足利義昭を第15代将軍に擁立したことで、その目標は達成され、その後は「天下静謐」を目指したことが明らかにされている。
そして、父・信秀は朝廷には内裏修理料を、伊勢の神宮には外宮遷宮のため材木や銭を献上している。後に信長が内裏の修理を大々的に行ったのも、この姿勢を受け継いだものだろう。だから、加藤氏の小説は、史実に沿っているんだ。
■4.「天子様の家来が自分勝手に争いあっていいものでしょうか」
伊勢: 加藤氏は信長の尊皇心を一番良く受け継いだのが、秀吉だと指摘している。信長が京都に入って、まず荒れ果てていた皇居を修築したんだけど、その際に、秀吉は工事の費用の金集めに奔走したり、時には、人足たちと一緒に泥まみれになって材木を運ぶ車をひいたりした。
後に関白になってからは、正親町(おおぎまち)天皇の譲位に際して、長い間廃れたままになっていた上皇の御所を造営している。
花子: まさに、信長が行ったことを、そのまま引き継いだのですね。
伊勢: 秀吉は農家の出で、学問はないが、当時の民衆の素朴な尊皇思想を持っていたようだ。信長に仕える前に、今川家の家来・松下之綱(ゆきつな)に対して、こう語っている。「天子様の家来が、めいめい自分勝手に争いあっていいものでしょうか」とね。
まさに「一君万民」の考え方だね。これは、天皇のもとで、すべての日本人は平等な民だという考え方だ。戦国時代は、本来平等のはずの民のうちの強大な力を持つ戦国大名たちが、「めいめい自分勝手に争いあって」いたのだから、それは良くない、という考えだ。
信長の「朝廷の御威光を輝かして日本国中を安らかな御代にかえしたい」というのも、同じ考えだね。「朝廷の御威光」のもとでは、すべての民はその家来なのだから、互いに仲良く力を合わせなければならない。尊皇思想とは、必然的に国内の統一と平和を求める。信長と秀吉が追求したのは、まさにこの理想だね。
■5.「日本国民は、つまりは同じ家の兄弟なのである」
伊勢: 秀吉が「一君万民」の考えを明確に実行に移したのが、島津を討った時だね。秀吉は関白になってから、天皇の命令として「惣無事令(そうぶじれい)」を出して、全国の大名に戦いの中止を命じた。これに従わなかったのが、薩摩の島津義久だ。もうすぐ九州全体を制覇するという所まで行っていた。
秀吉は後陽成天皇の勅命を戴いて、天正15(1587)年3月に数万の大軍を出し、島津の軍を打ち破った。義久は剃髪出家して秀吉のもとを訪れて謝罪し、秀吉は一命を捨てて降伏したので赦免するとして、「薩摩一国をあてがう。今後は叡慮(天皇のおもんばかり)を守って忠功を励むように」と伝えたんだ。この時に、加藤氏は秀吉にこう語らせている。
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日本に大馬鹿者が二人ある。一人はおれで、一人は島津だ。これほどの大軍を遠い九州まで出しながら、島津の息の根を止めないで帰る俺も大馬鹿だが、初めから、下ればいいのに、無用の抵抗をして、兵を失い、領地を削られた島津も大馬鹿だ。おれも島津も、いずれ劣らぬ大馬鹿者よ、は、は、は。[加藤、p30]
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こう言わせた後で、加藤氏は歴史の真実を説く。もし秀吉が島津を滅ぼしてしまおうとしたら、勇敢な薩摩隼人が死に物狂いで抗戦して、大変な事態になったろう。また島津も、敵わないと知って、あっさり兜を脱いだので、もともとの領地は保つことができた。「秀吉にしろ、島津にしろ、馬鹿どころか、このうえもなく賢かったのである」。[加藤、p30]
その上で、加藤氏は秀吉の考えをこう説く。
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敵味方と分かれていても、上に御一人をいただきまいらする日本国民は、つまりは同じ家の兄弟なのである。兄弟同志が、意地を張って争い合うのはつまらないことだと、秀吉はいつも考えていた。[加藤、p30]
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■6.北野大茶会「民は兄弟なので、楽しみも共にすべき」
伊勢: 天皇の下で、民はみな兄弟同士なのだから、戦いあうのはいけない、というだけでなく、楽しみも共にすべきだと、秀吉は考えていた。その考えが現れたのが、天正15(1587)年、京都北野天満宮境内で秀吉が催した大茶会だね。
10月1日から10日間、茶の湯を楽しむ者は、身分は問わないから遠慮なくやってこい。一人畳(たたみ)2畳、畳がなければ、ボロ筵(むしろ)でも良い。道具などはなんでもあり合わせのもので良い、と呼びかけた。
秀吉は自ら茶を点(た)て、信長の息子・信雄(のぶかつ)や徳川家康や前田利家などに振る舞ったあと、自ら庶民が引いた畳を訪れて、「一服貰おう」とうまそうに飲んだりした。「われわれのような卑しいものを、まるで、友達のようにしてくださる」と、人々は喜んだ。加藤氏はこう解説している。
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気取らず、高ぶらず、わけへだてせず、日本国民はみな天子様の子供で、だから兄弟なのだ。同じ仲間だという気持ちを。秀吉は常にこういう気持ちを失わなかったに違いない。秀吉がその当時の人からなつかれ、後の世の人々からも慕われているのは、一つは、このためである、と考えられる。[加藤下、p42]
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花子: 秀吉は、現在でも慕われているのは、こういう人柄からなんですね。
伊勢: そう、そして、その「人柄」とは、日本の「一君万民」という「国柄」に根ざしたところから来ていると思うんだ。
■7.日本国を一つにまとめたのは「天子様の御威光」
伊勢: 秀吉は東北から九州まで、日本国中を一つにまとめたけど、それが成功した理由について、加藤氏はこう書いている。
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それを秀吉の手だと思ったら間違いである。秀吉が日本をひとまとめにすることができたのは、天子様の御威光を後ろに負っていたからである。だから、天子様の御手によって、こう日本中をひとまとめにされたと言っていいのである。[加藤下、p78]
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花子: 「天子様の御手によって、日本中をひとまとめにされた」とは、どういう意味ですか?
伊勢: 秀吉が日本をまとめられたのは、本人の才覚もあるけど、やはり多くの人々の後押しがあったからだろう。秀吉が、日本人はすべて「天子様の家来」という考えで、平和を目指した。その姿勢が多くの人の後押しを呼んだんだね。それが「天子様の御手」じゃないかな。
たとえば、黒田官兵衛と並んで「両兵衛」と称された名軍師・竹中半兵衛は、もとは美濃の領主・斎藤龍興(たつおき)の家臣で、信長勢と戦っていた。非常な知恵者で、半兵衛がいる間は、織田勢もしばしば斎藤方に破られていた。しかし、龍興が勝利に驕り、酒色に溺れる様に愛想をつかして、山中に隠棲してしまった。
秀吉はなんとか、半兵衛を味方につけたいと思い、従者一人を連れて、半兵衛を訪れた。そして、こう説得する。
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あなたのような知恵者は、その知恵を用いて、世の中をよくし、民百姓の難儀を救わなければならぬ。自分だけが静かに暮らせれば、それでいいと考えるのは、間違っています。[加藤上、p132]
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伊勢: 秀吉の真心に、半兵衛も心動かされ、「織田殿に仕えるのではなく、あなたの幕僚となって、あなたをお助けいたすことにしよう」と答えた。こうして天下の軍師が、秀吉を助けたんだね。
花子: 竹中半兵衛のような天才的軍師の協力を得たり、島津義久のような強力な大名を大人しくさせたりして、秀吉は天下を統一できたんですね。
■8.皇室の理想が日本人の「偉いところ、良いところ」を生み出す
伊勢: そう、人間には利他心の本能があるからね。秀吉のように、多くの人間の利他心を引き出すリーダーのもとに、人々は集まってくる。それが司馬遼太郎の言う、「愛を意識的にもてばこの国を統一するもっとも大きなエネルギーになりうる」ということだ。しかし、日本での「愛」は、キリスト教の個人間の愛ではない。天皇が民を「大御宝」として大切にする大御心だ。
秀吉の抱いた尊皇思想とは、民を大御宝とする皇室の大御心を現実世界で実現しようということなんだね。
花子: それが秀吉が日本統一に成功した原動力だったということは分かりましたが、晩年の朝鮮征伐はどうなんでしょう? 民を仕合わせにしようという目的とは、ずれてしまっているのでは?
伊勢: 加藤氏は、朝鮮征伐を、当時の大東亜共栄圏の先駆けだった、と捉えているけど、私は違う面もあると思う。大東亜共栄圏では、マレーシアやインドネシアなど、西洋列強の圧政から解放されるチャンスと、現地の人々が日本軍を助けて、驚異的な進軍スピードが実現できた。
しかし、朝鮮征伐では、現地の人々どころか、日本軍の内部でも反対する人々がいて、力を一つにすることができなかった。秀吉は、シナが当時のフィリピンのようにスペイン人の植民地となったら、元寇よりも何倍も大きな危機が襲ってくると危惧し、そのために先にシナを押さえてしまえと考えたようだけど、そういう戦略は多くの日本人には理解できなかった。
結局、秀吉は全国の平和的統一という皇室の「大御宝を鎮むべし」の理想に向かっている間は国中の民の後押しを得て、大成功を収めたけど、皇室の理想とはかならずしも合致しない方向に動きだした途端に、民の後押しを失って、失速してしまった、と言える。
花子: 「朝廷の御威光」とは、そのように多くの民の力を結集して、民の仕合わせを築こうという、現実的なパワーなのですね。
伊勢: そう、それに生きた秀吉こそ、「日本人の持ったあらゆる偉いところ、良いところを、一人に集めた人」なんだね。皇室の理想が、日本人の「偉いところ、良いところ」を生み出すんだ。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
・伊勢雅臣『大御宝 日本史を貫く建国の理念』、扶桑社、R06
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/459409788X/japanontheg01-22/
・JOG(986)織田信長・豊臣秀吉による天下統一
天下統一には、武力による全国制覇だけではなく、「安定した近世社会のしくみ」作りが必要だった。
https://note.com/jog_jp/n/nd39b41be615b
・テーマ・マガジン「バテレンの侵略から日本を守った信長・秀吉・家康の戦い」
大航海時代、ポルトガルとスペインは、キリシタンを尖兵として、世界侵略を進めていました。中南米、フィリピン、マカオなどがその例です。その危険性に気づいた三英傑が日本を守りました。
https://note.com/jog_jp/m/m84dc4b31d0f6
・テーマ・マガジン「信長・秀吉による国家再統一」
戦国時代でバラバラになっていた国家を再統一した信長・秀吉の事業は、日本の歴史の中でも大きな意味を持っていました。
https://note.com/jog_jp/m/m34896b14aa09
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
・加藤武雄『[復刻版] 豊臣秀吉 上巻』★★★、ダイレクト出版、R05
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4866221828/japanontheg01-22/
・同 下巻
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4866221836/japanontheg01-22/
・司馬遼太郎『新史 太閤記(下)』★、新潮文庫、S48
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/410115211X/japanontheg01-22/
■伊勢雅臣より
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■編集後記
秀吉は、特に大阪では大人気です。大阪城の天守閣は昭和6(1931)年に再建されたもので、空襲で被害は受けましたが、破壊は免れました。
鉄筋コンクリート構造で昼間見るとやや近代的すぎますが、夏の夜などにライトアップされると、風情があります。中は博物館となっており、エレベーターがあるので、足腰に自信のない人にもお勧めです。
巨石を用いた石垣など、太閤さんの当時の力を感じます。日本文化というと折り紙とか生け花、お茶など小さなモノが多いのですが、仁徳天皇陵や戦艦大和、スカイツリーなど、日本人には巨大なものにもチャレンジする民族性もあります。こういう広壮なお城を外国人観光客に案内すると、日本文化のもう一つの面を理解してくれるでしょう。
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