No.1426 「板垣死すとも自由は死せず」~ 「一君万民」を目指した自由民権運動
板垣退助は、国民が一体となった強い国家を作ろうと、自由民権運動に長年尽くした。
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■1.板垣が根付かせた「自由」の言葉
伊勢: 花子ちゃん、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉は聞いたことがあるかな?
花子: 歴史の授業で習った記憶があります。確か自由民権運動のリーダー・板垣退助の言葉ですね。
伊勢: そう、明治15(1882)年4月、板垣が岐阜を遊説中に、暴漢に襲われた。板垣は元軍人で柔術も身につけていたので、暴漢ともみ合ったが、短刀で数カ所の傷を受けた。周囲の者が暴漢を取り押さえた際に、板垣が叫んだ言葉だとされている。
周囲の者が世論の受けを狙った作り話だという説もあるけど([門井])、研究書では板垣は事件の1年以上前から同様の発言をしていたし、事件を目撃していた政府の密偵も証言していることから([中元])、これは本当に板垣が発した言葉のようだ。
花子: それにしても、格好いい言葉ですね。
伊勢: そう、当時の国民にも大受けして、ここから「自由」という言葉が一般大衆にも浸透しようだ。新聞の見出しには半年経っても「自由」という言葉が踊り、また人力車の車夫までもが、盗みで捕まった仲間が出獄するのに、「あいつもこれで『自由』の身だ」などと言うようになった。
明治日本のインテリたちは、フランスのジャン=ジャック・ルソーや英国のジョン・ロックなどから、西洋的な自由の思想を学んでいたけど、日本国民の心に根付いたのは、この板垣の言葉からではないかな。
■2.板垣の大人気
伊勢: そもそもこの頃の板垣の演説会の盛況なことには、本当に驚かされる。この時は、板垣は長旅をしながら演説を続けていた。東京を2月下旬に出発し、北関東から東海地方を40日ほどで回って、ようやく岐阜に着いたところだった。その間、毎日のように昼は演説会、夜は地元の人々との懇親会が続いた。
ついには喉が破れて、演説の際には喉に湿布を貼り、首に巻いたハンカチでそれを隠していた。またある時は、高熱で倒れて、4、5日も予定が遅れたこともあった。岐阜での演説会の前の晩は、周辺から集まった人で、旅館はどこも満員になったという。
岐阜での講演会場は、神社の講堂だった。講堂は畳敷きだったけど、聴衆は座るどころか、立錐の余地もないほどぎっしりと立ち並んでいた。それでも入りきれない人々が、入り口のあたりにあふれている。500人は超えていたらしい。板垣が登場すると、万雷の拍手で迎えられた。
花子: いったい板垣は、どうしてそんなに人気を得たんでしょう?
■3.天下の雄藩・会津藩がなぜ敗れたのか?
伊勢: それを語る前に、板垣が自由民権運動を志した原体験を話しておく必要がある。板垣は、最晩年、病床で秘書に口述筆記させた遺著『立国の大本』の中で、幕末の戊辰戦争での体験を次のように語っている。
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私は戊辰戦争で会津城が落ちた日に、かつて会津が天下の雄藩(有力な藩)と称えられていたにもかかわらず、その滅亡の際に国に忠誠を尽くして戦ったのは、士族階級の5千人だけであり、一般の農民や町民に至っては、ただ一人の農夫が自分の作った里芋を主君に献じた以外は、みな敵側に味方したり逃げたりする様子を目の当たりにした。
そして、座して日本の将来を思い、国を憂う深い思いを自分自身で抑えることができなかった。[板垣、p27,現代語訳・伊勢]
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伊勢: 会津藩では、武士と農民・町人が一体となって、藩のために尽くすということをしてこなかった。だから戦うのは武士だけで、農民や町民は「我関せず」と逃げてしまった。会津藩の武士がいかに精強でも、これでは藩全体としては強くなれない。
アヘン戦争で、あの大清帝国がイギリス艦隊にコテンパンにやられたのも、民衆がそっぽを向いていたからだ。イギリス艦隊はもともと食糧補給も難しいのだから、持久戦に持ち込めば勝てる算段もあったのに、祖国を裏切って食糧を売る輩や、上陸した部隊を道案内をして金儲けをする者まで現れた。
花子: それで、はるばるイギリスから遠征してきた艦隊に負けてしまったのですね。
伊勢: そう、江戸時代には我が国でも国を守るのは武士の仕事で、百姓や町民は、国政には口出しをさせなかった。これでは、日本も清国と同じ運命を辿るのではないか、と板垣は恐れたんだ。そこで、板垣はこう説いた。
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この時にあたって、我が帝国が独立して自ら強くあろうと望むならば、必ず上から下までが心を一つにし、国民が苦楽を共にし、国全体が一致団結して国の運営にあたらなければなりません。
したがって今後は、断固として身分や特権の制度を廃止し、士族が権利を独占するのをやめて、四身分のすべての人々が等しく国を守る役割を担い、互いに喜びも悲しみも共にする道を開かなければなりません。[板垣、p29、現代語訳・伊勢]
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伊勢: 板垣は「一君万民」という言葉をよく使った。天皇の下、すべての国民は平等な同胞だという伝統的理想だね。国民は平等に力を合わせて、それぞれが当事者意識を持って、自由に国家のために尽くすこと、そういう国民共同体こそが、最も強いのだ、と考えた。
花子: バラバラの個人が自由に振る舞う、というだけの自由ではないのですね。
伊勢: そう、国民が国家の事も考えずに、自由勝手に振る舞っていては、やがて欧米列強の植民地にされて、「民安かれ」という国家目的も果たせなくなってしまう。かと言って、国民に自由を与えず、兵役を強制しても、本気では戦ってはくれない。
自由な国民が自主的に国のために尽くす、そして、互いに同胞感を持って支え合う、そういう国になることが、独立を守り、「民安かれ」の皇室の伝統的理想を実現する道だと板垣は考えた。それが自由民権運動を始めた動機だった。
■4.国民が自由に国家に尽くすために必要な3点セット
伊勢: しかし、自由な国民が自主的に国のために尽くすには、それなりの前提条件が必要だ。
たとえば、花子ちゃんのクラスで学園祭の出し物を企画するとしよう。花子ちゃん自身は環境問題の展示をしては、と考えているのに、数人の委員だけで「劇をやる」と勝手に決めてしまい、花子ちゃんには自分の意見を言う場もないとしよう。
そういう状態で、花子ちゃんは委員から、「劇でこの役をやって」と指図を受けたとしたら、与えられた仕事に自主的に頑張れるかな?
花子: 自分の意見を全く聞いてもくれないで、単に「この役をやれ」という頭ごなしの指示だけでは、やる気なんか起きません。
伊勢: 当然、そうだよね。だから、一人ひとりの生徒に自主的に頑張って貰うためには、皆が自由に意見を言える場が必要だ。そういう場で、花子ちゃんは「環境の展示をしては」と言ったけど、結局は皆の多数決で「劇をやろう」と決まったら、どうだろう。
花子: その場合は、劇の方で頑張ります。クラス皆で議論をして、多数決で決まったのなら、仕方ありません。
伊勢: 皆が自由に意見を言う権利を持つ。それが「自由民権」運動の目指した姿なんだ。そういう形であってこそ、クラスとして一体感をもって、劇に取り組める。
こうした自由民権を実現するための仕組みとして、板垣は国会、憲法、政党の3点セットを考えた。国会とは、議員を通じて国民がモノを言える制度だね。そして国会が決めた法律を政府は守らなければならない、など、基本的なルールを定めるのが憲法だ。さらに、自分たちの考えに共感する生徒を集めて、この案に協力して、などと、力を合わせて多数派をとろうとする。これが政党だね。
花子: 国民が国家のことを自分事として受けとめ、自主的に尽くしていこうとするには、その3点セットが必要なんですね。私は、「自由民権運動」というのは、国民一人ひとりの自由と人権を国家権力から守ることだと考えていました。
伊勢: 左翼的な歴史観では、国家と個人を対立的に捉えて、専制的な明治政府から、国民の自由と人権を守ろうとしたのが自由民権運動と考えるけど、板垣が目指したのはちょっと違う。自由民権運動こそが、国民が一体となった強い国家を作り、独立を守り、「民安かれ」を実現する道だという信念だった。
このように、皇室の「民安かれ」の祈りを実現するために、国会、憲法、政党という仕組みを備えた国家を、私は「民本国家」と呼びたい。大正時代の政治思想家・吉野作造が唱えた民本主義に習ってね。
■5.武士の反乱を抑え、議論で政治の方向を決めていく
伊勢: 黒船に脅されて開国した経験から、当時の国民は欧米列強の脅威を身近に感じていた。一方で、明治政府は廃藩置県、地租改正、学制、殖産興業など、めまぐるしい近代化政策を次々と打ち出していた。そんな中で、我々は今後どうなっていくのか、当時の国民も心配で不安だった。板垣の演説会に多くの聴衆が詰めかけたのも、そういう国民の危機感が動機となっている。
花子ちゃんは、明治の初期に、武士層の反乱がいくつも起きたことを習っているよね。年表風に並べると、こんな感じになる。
・明治7(1874)年、佐賀の乱(肥前)
・明治9(1876)年、神風連の乱(熊本)
・ 同 、秋月の乱(福岡)
・ 同 、萩の乱(長州)
・明治10(1877)年、西南戦争(薩摩)
これを見ると、明治維新の中心となった薩長土肥のうち、土佐を除く薩摩、長州、肥前では武士の反乱が起きている。自分たちの力で維新が成ったのに、秩禄処分で今までの封禄が廃止され、廃刀令で刀を持てなくなり、武士の身分を否定する政策への反発だった。
しかし、唯一、土佐だけは反乱を起こしていない。実は、土佐の板垣退助は維新の元勲で、西郷が立てば、当然、板垣も立ち上がる、と、当時の多くの人々は見ていた。
それを防いだのが、板垣の自由民権運動だった。もはや意見の違いを武力で決める時代ではない。国会、憲法、政党を作って、議論で決めるべきだと板垣は考えたんだね。そこで土佐は武力反乱を起こさずに、自由民権運動の震源地となった。「自由は土佐の山間(さんかん)より」というのが、当時の自由民権運動のスローガンだった。
そもそも、西南戦争のような内乱は、国家の力を弱め、外国勢力につけいる隙を与えてしまう。こうした不平士族の不満を吸い上げて、国家のあり方を議論で決めていこうというやり方が、国内の統一を守り、国を強くする、という最高の国防政策なんだ。この面でもさっきの3点セットが不可欠だった。
■6.自由民権運動が後押しした民本国家
伊勢: 板垣はちょうど佐賀の乱と同じ年、明治7(1874)年に「民撰議院設立の建白書」を出して、選挙によって選ばれた議員による国会開設を求めた。これが自由民権運動の始まりとされている。この運動が全国的に広がって、選挙によらない、薩長などの藩閥出身者による政府を「有司専制(政府高官による独裁的な政治)」と批判し、政治参加を求める声が高まっていった。
もともと明治の始まりの時点で「五箇条の御誓文」が出され、その冒頭から「万機公論に決すべし」と示されていたので、政府としても、その方向については異論はない。ただ、どういうスピードで、そこに近づくか、という問題だった。板垣の自由民権運動は、国民の声を高めて、その迅速確実な実施を図るべし、という明治政府に対する圧力となった。
岐阜の事件の半年前、明治14(1881)年10月に「国会開設の詔(みことのり)」が発せられて、10年後の明治23(1890)年を目途に国会を開設する事が約束された。当時の政府の中心、伊藤博文が慎重な検討のために10年という長い年月をかけるが、それを詔、すなわち天皇のお言葉として、国民が信頼できるように発表したんだ。
花子:ということは、板垣の自由民権運動がなければ、もっと長い時間がかかったかも知れませんね。
伊勢:まったくその通りだね。「五箇条の御誓文」で高々と国是としての議会制民主主義を掲げ、それに向かって、伊藤の慎重さと板垣の民意の盛り上げという、絶妙の両輪で、明治日本は民本国家に向かっていったんだね。
国会開設が約束されていた前年の明治22(1889)年2月11日に憲法が発布され、詔で約束したとおり、明治23(1890)年11月、憲法の施行とともに、国会が開設された。
■7.専制国家よりも民本国家の方が強い
伊勢: こうした民本国家の仕組みが大きな効果を発揮した事例がすぐに起きた。日清戦争の直前、大国の清はドイツから世界最新最大級の巨艦を購入し、日本をはるかに上回る海軍力でわが国に脅威を与えていた。明治26(1893)年、政府は増税を伴う海軍拡張の予算を国会で通そうとしたけど、議会は反対し、内閣不信任案を提出、政府は議会の停会をもって応ずるなど、膠着状態に陥った。
ここで、明治天皇から「和協の詔勅」が出された。そこではご自身で宮廷費の一割にあたる30万円を6年間削って軍艦建造費に充てるとともに、文武官僚も俸給の一割を国家に献納すること、その上で政府と議会の「和協」を命ぜられたんだ。
この詔勅を受けて議員たちはただちに政争をやめ、政府予算を承認し、自分たちも年俸の4分の1を上納することを決議した。国民も、議会の議決は自分たちの声だと納得しただろう。国民からも多額の寄付が寄せられた。
一方の清国では、皇帝の後見役・西太后が自分の還暦を記念して、軍艦購入費約4500万円を流用して、広大な頤和園(いわえん)を造営した。自分たちの意見は何も言えないまま4500万円も個人的に使われてしまう清国国民と、自分たちの代表である議員たちが年俸削減までして率先垂範した日本国民と、どちらがまとまった強い国なのか、一目瞭然だね。
同様の事は、日露戦争でも起こった。日本は政府と軍ばかりでなく、民間も一生懸命協力した。一方のロシアでは、皇帝の勝手な戦争に反対するデモが各地で起きており、それを専制政府が弾圧していた。ロシアに比べればはるかに小さい日本が勝利できたのは、これが一因だった。
花子: 独立を守るために、国民が一体となった国を作ろうと、長年、自由民権運動に尽くしてきた板垣退助の宿願が果たされたのですね。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
・JOG(242) 大日本帝国憲法~アジア最初の立憲政治への挑戦
明治憲法が発布されるや、欧米の識者はこの「和魂洋才」の憲法に高い評価を与えた。
https://note.com/jog_jp/n/nca37e764796b
・テーマ・マガジン「近代日本、荒海への船出」
鎖国を解いて、日本人は大船を作り、大洋を航海する技術を身につけます。それが、独立を維持し、世界の列強に伍してやっていく道でした。
https://note.com/jog_jp/m/m6ea37bf20070
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
・板垣退助『立国の大本(校註)』★、いざなみ文庫
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B0B9RRRHVW/japanontheg01-22/
・門井慶喜『自由は死せず(下)』★★★、双葉文庫、R5
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・中元崇智『板垣退助-自由民権指導者の実像』★★、中公新書、R02
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■前号「豊臣秀吉 ~ 日本人の持った良いところを一人に集めた人」へのおたより
■日本の皆が豊臣秀吉になら天下を取らせたいと思ったから(清田直紀さん)
今回のメルマガで描かれた豊臣秀吉像、とても素敵だと感動しました。
一君万民・大御宝
の思想を行動で体現したからこそ天下統一できたのだと。
そしてそれは、日本の皆が豊臣秀吉になら天下を取らせたいと思ったからなのだとわかりました。
授業や生き方にも活かしていきます。
■伊勢雅臣より
清田さんは中学校の社会科教師です。こんな授業を多くの中学生が受けられたら、素晴らしい国民がどんどん育ちますね。
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■編集後記
上野の森美術館で開催中の「五大浮世絵師展」(7/6まで)を見てきました。何枚もの版木の彫って、重ねて印刷する方法で、1ミリ以下の線で髪の生え際を描くなどの超絶技法に驚かされました。
それとともに感じたのは、こうした素晴らしい美術作品がたくさん擦られて、江戸の多くの町人たちも買い求めていたことです。
西洋の油絵は、画家が1点毎に描くので、貴族や大商人が家で飾る程度でしょう。一般大衆はせいぜい教会に飾られた絵を見るしか、美術作品に触れる機会はなかったのでは、と思います。
それと比べると、日本の美術は大衆も楽しめるような形で発展していたことが良く感じられました。民を「大御宝」とする伝統は、美術の世界でも現れていました。
以上
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