JOG(1436) 台湾同胞のために尽くした先人から日本精神を学ぶ


 台湾の歴史を現地で辿れば、我々の先人たちが、台湾の同胞のために尽くした「日本精神」が感じられる。

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★★★今週号は、本文で述べるように緊急のお知らせがありますので、一日早く発信させていただきます。★★★


■1.台湾の同胞のために我々の先人たちが尽くした真の「日本精神」

 一昨年、参加させていただいた「日台友好歴史探訪ツアー」が、今でも鮮明に記憶に残っています。八田與一が残した烏山頭ダム、與一が仕事をした書斎、また、台湾の近代教育に殉じた六士先生の墓、台湾の人々が今でも杉浦茂峰兵曹長を神様と祀って線香の絶えない飛虎将軍廟、森川清治郎巡査を祀る義愛公廟、そして李登輝元台湾総統の生家、、、

 先人の生き様を本で読むとともに、その土地を訪れると、そこで仕事をし、あるいはその土地に殉じた先人のありし日の姿が浮かんできて、その志がより一層、身近に感じられます。

 その「日台友好歴史探訪ツアー」が今年も開催されると聞いて、台湾の各地で暮らし、その土地に尽くした我が先人たちの足跡を思い起こしたいと思います。その先人たちは、現代の我々が忘れかけている真の「日本精神」で、国民同胞である台湾の人々のために尽くしました。その日本精神を思い出すためにも、台湾は大切な土地です。

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 世界一の親日国・台湾で本物のリーダーシップと
   日本精神を学ぶ日台友好歴史探訪ツアー
     2025年10月16日(木)~19日(日)
https://realinsight.co.jp/lp/taiwan/2025/rac.html?aid=fL76o0Bl

 8月31日(明日)までの早期割引き価格25万円 ← 定価29万8千円
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 今回は、その行程での代表的な見どころをご紹介して、先人の残した日本精神を辿ってみたいと思います。


■2.鳥山頭ダム・八田與一記念館・八田與一記念公園

 台湾南部の古都・台南市から東北にバスで1時間20分ほど行くと、台湾第2の烏山頭ダムに着きます。湖畔にはホテルが建ち、満々と水をたたえた湖水にはボートも浮かぶ観光地になっています。

 このダムを見下ろす北岸に、日本式の墓があり、「八田與一、外代樹之墓」と刻まれています。墓の前には作業着姿で腰を下ろし、片膝を立てた八田の銅像が建っています。墓も銅像も、このダムを造った八田與一を敬愛する地元農民が作ったものです。

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 八田與一の業績は、前台湾総統・李登輝氏の次の言葉が見事に要約しています。

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 台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、おそらく日本人の多くはご存じないでしょうが、嘉南大しゅう(土へんに川、用水路)を大正9年から10年間かけて作り上げた八田與一技師が、いの一番に挙げられるべきでしょう。
 台湾南部の嘉義から台南まで広がる嘉南平野にすばらしいダムと大小さまざまな給水路を造り、15万ヘクタール近くの土地を肥沃にし、100万人ほどの農家の暮らしを豊かにしたひとです。
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 李登輝元総統の敬愛を込めた言葉は、そのまま現地の人々の感謝を表しています。
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JOG(216) 八田與一 ~ 戦前の台湾で東洋一のダムを作った男(動画つき))
 台湾南部の15万ヘクタールの土地を灌漑して、百万人の農民を豊かにした烏山頭ダムの建設者。
https://note.com/jog_jp/n/na6d729bae3ba
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■3.六士先生 ~ 台湾での近代教育開始に殉じた6人の日本人教師

 伊澤修二は明治12年、東京師範学校校長、20年、東京音楽学校初代校長など、明治の教育界の先駆者的役割を果たしました。小学唱歌を編集して、小学校に音楽教育を導入した功績もあります。「仰げば尊し」は伊澤の作曲と言われています。

 明治28年4月、台湾の初代総督に内定していた樺山資紀(すけのり)に会った際、新領土台湾では教育こそ最優先にすべきだと意見具申したところ、樺山から自らその任に当たるよう勧められて、台湾行きを決意しました。

 日本統治前の台湾は「三年小反五年大反(3年ごとの小規模反乱、5年ごとの大規模反乱)」と言われるように清国官憲に対する住民の反乱が繰り返されていました。また「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」とも呼ばれ、平定に向かった日本軍5万の約半数がマラリア、赤痢、コレラなどの病に冒されほどでした。

 そのような土地にまず教育を、という伊澤の覚悟は余程のものであったでしょう。5月18日、台湾総督府の始政式の翌日に、伊澤は学務部長心得として、台北で仕事を開始しました。台湾統治のまさに初日に教育行政を開始し、それも伊澤のような日本教育界の中核的人材が惜しみなく投入されている所に、明治政府の台湾統治への意気込みが伝わってきます。

 台北・北郊の士林の街にある小高い丘・芝山巌にある廟を借りて、学堂とし、伊澤のもとで、6人の日本人教師が、6人の台湾人生徒と同じ部屋で起居を共にして、日本語教育だけでなく、礼儀作法なども含めた全人教育を始めました。

 しかし、悲劇は、翌年正月の新年に起こりました。6名が台北・総督府での新年の拝賀式に出席すべく、山を降りる途中で、ゲリラに遭遇し、惨殺されたのです。

 その時、伊澤は東京で、教員募集をしていました。その最中に悲報が流れましたが、伊澤は教員希望者にこう説いていました。
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 このように倒れた人々のことを思うと、実に悲しみに堪えませんが、これから台湾に行って、つまり新領土に行って教育をする人は、今回倒れた人と同じ覚悟を持ってもらわなければならないと信じています。
 ですから、身に武器を一切持たずに、現地の人々の中にも入っていかなければ、教育の仕事というものはできません。このようにして、初めて人の心の奥底に入り込むことができると思います。
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 この伊澤の言葉に奮い立って、300名もの応募がありました。これらの人々が、台湾に渡り、各地で教育を行っていきました。

 我が先人たちは、このような覚悟を持って、台湾同胞の教育のために、尽くしたのです。それに対する台湾の人々の深い感謝が、六士先生の立派なお墓からも窺えます。

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JOG(225) 仰げば尊し ~ 伊澤修二と台湾教育の創始者たち(動画つき)
 新領土・台湾では教育こそ最優先にすべきだ と、我が身を省みずに尽くした先人たち。
https://note.com/jog_jp/n/n878539cc46aa
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■4.李登輝元台湾総統の墓参と李登輝氏元秘書・早川友久氏ご講演

 李登輝元総統は、漢民族5千年の歴史で初の自由選挙で選ばれた台湾総統です。李登輝は、司馬遼太郎と会った際に、こう言ったそうです。
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 シバさん、私は二十二歳まで日本人だったのですよ。 自分は、とこの人は言う。初等教育以来、先生たちから日本人はいかにすばらしい心を持っているか---おそらく公に奉ずる精神についてに相違ない---という教育をうけつづけたんです。むろん大人になってから日本へゆくと、日本にもいろいろな人がいるということを知りましたが。
 しかし、二十二歳まで受けた教育は、まだのどもとまで--と右手を上にあげて---詰まっているんです、といった。
 たしかに、そう言われてみると、李登輝さんは日本人の理想像にちかい人かとも思えてくる。[司馬遼太郎『台湾紀行』]
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 その李登輝元総統は、台湾に中国史上かつてなかった豊かさと自由をもたらしました。
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 今日の台湾のような繁栄した社会、活気にあふれた人民があまねく高度な生活水準にある状態の社会は中国史上かつてなかった現象です。・・・
 今日の台湾は、名実ともに主権在民が実施され、国民はさまざまな自由権と参政権を持って、自由な意思を存分に発揮しています。また人権は十分に尊重されており、これは中国の歴史にはなかったことであります。[李登輝『台湾がめざす未来』]
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 豊かで自由な民主主義国台湾は、我が国周辺で唯一、心を許せる隣国です。その台湾は李登輝元総統が創り、その元総統は、我が先人たちの日本精神が育てたのです。
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JOG(61) 李登輝総統の志
 漢民族5千年の歴史で初の自由選挙で選ばれた台湾総統。「世界でももっとも教養の高く、かつ名利の欲の薄い元首(司馬遼太郎)」
https://note.com/jog_jp/n/nfc4b74929e28
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■5.日本海軍の杉浦茂峰兵曹長を神として祀る鎮安堂飛虎将軍廟

 飛虎将軍廟は杉浦茂峰・兵曹長を祀っています。昭和19(1944)年10月12日、台南上空で米軍機と空中戦となり撃墜されましたが、村の家々への墜落を避けて、郊外まで操縦してから脱出しました。しかし、落下傘での降下中に米軍機の機銃掃射を浴び、戦死。

 自分の命に代えても住民を護ろうとした杉浦を、村民たちは「神」と称え、この立派な飛虎将軍廟を建てました。杉浦は煙草が好きだったので、今でも毎日、神像の前で何本もの煙草に火をつけ、午前中に『君が代』、午後は『海行ば』を流しています。

 驚かされるのは、この廟の立派なことです。現在、日本でこれだけの廟を建てたら、10億円以上はかかるでしょう。こういう立派な廟を村民の力で建て、今に至るまでお祀りを欠かさずに続けているのです。

 前述のように、台湾は清朝政府から「化外の地」(教化できない蛮地)とされて、収奪される一方で「三年小反五年大反(3年ごとの小規模反乱、5年ごとの大規模反乱)」と言われるように清国官憲に対する住民の反乱が繰り返されていました。そんな見捨てられていた住民たちが、命をかけて自分たちを守ってくれた杉浦茂峰・兵曹長のまごころに感激したことは容易に想像がつきます。

 しかし、80年以上前の出来事に、かくも立派な廟を建て、以来、線香を絶やさない、という台湾人のまごころにも驚かされます。


■6.村民のために尽くした日本人巡査を祀る義愛公廟

 義愛公として祀られている森川清治郎・巡査は、台南州(今の嘉義県)東石郷副瀬村の派出所に勤務していました。巡査は、村内の治安維持に努める一方、派出所の隣に寺子屋を設け、手弁当で子供たちのみならず、大人たちにも日本語の読み書きを教えていました。

 また朝早くから田畑に出て、どうしたら生産が上がるのか、村民とともに汗を流して実地に指導したり、病人が出ると飛んでいき、薬や医者の手配まで世話をしました。

 ある年、総督府は漁業税を制定しました。しかし貧しい村のこと、なんとか税の軽減をお願いできないかと村民たちは森川巡査に嘆願しました。巡査は税の減免を支庁長に嘆願しましたが、逆に森川巡査が村民を扇動していると曲解され、懲戒処分にされてしまいました。無念やる方なかった森川巡査は銃で自決してしまいます。

 それから、約20年後の大正12年、この地域で伝染病が流行した際に、村長の夢枕に制服姿の警察官が出てきて、「生水や生ものに注意せよ」と告げました。村民にその注意を守らせると、伝染病はおさまりました。

 村民たちは、自分たちの親や祖父母が一方ならぬ世話になった森川巡査が、死後も自分たちを護ってくれていると感激し、その制服制帽の姿を木像で作り、義愛公と呼んで祀りました。

 義愛公を祀った廟は、これまた立派なもので、貧しい村で多くの村民が一生懸命、力を合わせて建てたことが窺われます。この義愛公廟も、日本人と台湾人のまごころのつながりから生まれてきたものなのです。


■7.唯一の「台湾少年工」東俊賢氏 特別ゲスト講演

 わが先人たちが同胞愛をもって台湾人のために尽くした結果、台湾の人々も、日本のために尽くそうというまごころを育てていました。先の大戦中、8千4百余名もの15歳前後の少年たちが台湾から日本にやってきて、学びながら、神奈川県座間、大和の「高座海軍工廠(直属の軍需工場)」で軍用機製造にたずさわりました。

 指導員は厳しい中にも思いやりがあって、少年工たちの腕はみるみるうちに上達しました。彼らが作業に入るようになってから、生産は大きく伸び、廠長から団体表彰を受け、また個人表彰も数人受けました。

 本拠地の高座工廠に残った少年工たちは、雷電の製作に携わりましたが、完成した飛行機はベテラン・パイロットが試験飛行をした上で、戦地に送られます。ある時、試験飛行中の雷電が墜落するという事故がありました。テスト飛行をしていた森益基(ますき)兵曹はなんとか落下傘で無事脱出できました。脱出時に機体に頭をぶつけ、田に降りた時に足を挫いただけで済みました。

 翌日、森兵曹は頭に包帯を巻き、松葉杖をついて、工場に現れました。少年工たちはお目玉を食らうのを覚悟して、恐る恐る森兵曹の周りに集まってきました。森兵曹は後に、この時のことを思い出しながら、こう語っています。
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 おそるおそると近寄ってきた、集まった坊主らのあどけない顔を、一人ひとり見ているうちに叱責するのを止めた。俺は笑いながら、「お前ら、俺を殺すなよ」と言い終わるや、きびすを返して工場の門を出た。
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 その場に残っていた少年工たちは拍子抜けするとともに、森兵曹の態度に胸を打たれました。なかには「兵曹殿、すみません」と涙を流した者もいました。

 高座海軍工廠で量産していた局地戦闘機「雷電」は、米国の超大型爆撃機B29迎撃のために名機・零戦の設計者・堀越二郎が開発したもので、8千メートルまで9分45秒で上昇するという高性能を発揮していました。この雷電が少年工たちを主力とする高座海軍工廠で、終戦までに百数十機が作られました。そして厚木の第302航空隊でB29爆撃隊を迎撃し、多大の戦果を上げました。
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JOG(798) 台湾少年工たちの誇り
 8千4百余名の台湾少年たちが戦時下の日本で軍用機生産に貢献した。
https://note.com/jog_jp/n/nc21f2cd2f95a
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 ぜひ台湾の地で、我が先人たちの遺した日本精神を思い出してください。
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 世界一の親日国・台湾で本物のリーダーシップと
   日本精神を学ぶ日台友好歴史探訪ツアー
     2025年10月16日(木)~19日(日)
https://realinsight.co.jp/lp/taiwan/2025/rac.html?aid=fL76o0Bl
 8月31日までの早期割引き価格25万円 ← 定価298,000円
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・テーマ・マガジン「台湾人と日本精神」
 台湾人は、我々の先人たちが国民同胞として、心をこめて、その仕合わせのために尽くしてきました。その人々が、今も「日本精神」として、我が先人たちから受け継いだ日本人の心を豊かに継承してくれています。
https://note.com/jog_jp/m/m0228c03fd5fa


■伊勢雅臣より

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