JOG(1439) 小辻節三 ~ 杉原千畝の「命のビザ」で日本に逃れてきたユダヤ難民を救った男
「命のビザ」はわずか10日間の通過ビザ。その間に次の行き先を決めなければ、ユダヤ難民たちは送還される恐れがあった。
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■1.杉原千畝の「命のビザ」はわずか10日間の通過ビザだった
伊勢: 花子ちゃん、杉原千畝の「命のビザ」について聞いたことはあるかな? 映画化もされて有名になった物語だけど。
花子: はい、知っています! 第二次世界大戦中にリトアニアで何千人ものユダヤ人にビザを発給して命を救った外交官ですよね。
伊勢: さて、今回は「命のビザ」を手にしたユダヤ難民たちのその後の話だ。山田純大さんの『命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民』がその物語を感動的に語ってくれている。
杉原千畝が発給した「命のビザ」を手にした6千人のユダヤ難民たちは、11日間もかかってシベリア鉄道でウラジオストックまで来て、ここから日本郵船の船に乗って日本海を渡り、敦賀にたどり着いた。
花子: 敦賀の人たちは、ユダヤ難民にどう接したんですか?
伊勢: 敦賀の人々はユダヤ難民たちを優しく受け入れた。悪臭を放つユダヤ難民のために、銭湯の主人が一日店を休みにして入浴させた。食べ物がなく飢えたユダヤ難民にリンゴの差し入れをした少年もいた。日本海を渡る船の上で赤ん坊を出産したユダヤ人女性に対して敦賀の医師や看護婦が丁寧な処置をした。本当に温かい対応だったんだ。
でも、不安が消えたわけじゃない。「命のビザ」とは通過ビザであって、わずか10日間のうちに次の行き先のビザを得て、出国しなければならない。さもないと、ナチスドイツの待つ地獄に送り返されるかもしれない。なにしろ、日本はナチスドイツと同盟を組んでいる国なのだ。
花子: わずか10日間で、次の行き先のビザをとるなんて、ほとんど不可能ですね。
伊勢: 神戸のユダヤコミュニティの代表者は、ユダヤ難民たちの滞在日数の延長を求めて行政に掛け合ったが、その願いは叶わなかった。ユダヤ人たちは絶望し途方に暮れた。
その時、コミュニティの代表の一人が、ある日本人のことを思い出したんだ。この窮地を救ってくれるのは、かつて、満洲ハルピンの第三回極東ユダヤ人大会において、ヘブライ語で感動的なスピーチをした一人の日本人しかいない、と彼は気づいた。
花子: そんな人がいたんですか!
伊勢: そうなんだ。今は鎌倉に住むその日本人に、二人の代表者が会いに行った。絶望的な状況の中で、彼らはその日本人に最後の望みを託したんだね。
■2.ヘブライ語で博士号をとった小辻節三
伊勢: その日本人の名は小辻節三(こつじ せつぞう)。ヘブライ語学の博士号を持ち、ユダヤの言語と文化に精通していた。彼は明治32(1899)年に京都の賀茂神社の神官の家に生まれたんだ。
花子: 神社の神官の家に生まれたのに、ヘブライ語を学んだんですか?
伊勢: そうなんだ。小辻は成長するにしたがって、聖書に魅せられ、キリスト教会に通い始めた。両親は寛容にもそれを許してくれた。やがて小辻は旧約聖書を原文で読むため、アメリカに渡ってヘブライ語を学び、最終的にはカリフォルニア州サンフランシスコ近郊のパシフィック宗教大学で博士号を取得したんだ。
花子: すごいですね!それで日本に帰ってきたんですか?
伊勢: 昭和6(1931)年9月、32歳になっていた小辻は、日本に帰り、東京の青山学院大学で教壇に立った。しかし病で仕事を失い、自ら「聖書原典研究所」を作って、ヘブライ語と旧約聖書を教え始めた。
伊勢: 昭和13(1938)年に転機が訪れた。南満洲鉄道総裁・松岡洋右(ようすけ)から「総裁のアドバイサーとして働いてほしい」という招聘状を受け取った。満洲のユダヤ問題に取り組むための専門家として招かれたんだ。
しかし、小辻は学問で金を儲けるという考えには否定的で、断っていたが、総裁は半年もかけて、小辻を説得した。最終的には、ユダヤ人迫害から逃れてきた人々のために自分が役に立てると考えて引き受けたんだ。
■3.満洲でユダヤ人問題に取り組む
伊勢: 小辻が満洲に着いたのは、昭和13(1938)年10月だったけど、その年の3月にオトポール事件が起こっている。シベリア鉄道で満洲に逃れようとやってきた2万人とも言われるユダヤ難民が入国ビザがないため、吹雪の中で飢えと寒さで危険な状態にあった。それを関東軍のハルピン特務機関長・樋口季一郎陸軍少将が満洲国を説得し、入国ビザを発給させて、救った事件だね。
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JOG(85,86) 2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上・下)
人種平等を国是とする日本は、ナチスのユダヤ人迫害政策に同調しなかった。
https://note.com/jog_jp/n/n16caf7783c7d
https://note.com/jog_jp/n/n2a4aca2349cb
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伊勢: この事件以降、満洲に流入するユダヤ人は増え続けていた。小辻の仕事は、彼らの話を聞いて、松岡に報告することだった。その過程で、「この頃から私は、ナチスに対して憎悪を抱くようになり、ユダヤ人をより身近に感じるようになっていった」と、後に自伝で書いている。
実は、松岡総裁の陰には、ユダヤ問題の専門家、安江仙弘(やすえのりひろ)陸軍大佐や、犬塚惟重(これしげ)海軍大佐がいた。彼らは小辻がユダヤ人社会との橋渡し役として最適だと考えていたんだろう。二人とも、ユダヤ人問題に関して、日本政府を動かす重要な貢献をしている。
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JOG(257) 大日本帝国のユダヤ難民救出
人種平等の精神を国是とする大日本帝国が、ユダヤ難民救出に立ち上がった。
https://note.com/jog_jp/n/nd97265431008
JOG(260) ユダヤ難民の守護者、犬塚大佐
日本海軍が護る上海は1万8千人のユダヤ難民の「楽園」だった。
https://note.com/jog_jp/n/n312e92a82eb9
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伊勢: 小辻の満洲での仕事のハイライトは、1939年12月の極東ユダヤ人大会で、千人を超えるユダヤ人聴衆を前にヘブライ語で演説をしたことだね。他民族でありながら古典的なヘブライ語を見事に使い、しかもユダヤ人への友情と尊敬の気持ちの溢れるスピーチが終わった時には全員が立ち上がり拍手喝采を送ったという。
花子: それは感動的ですね!
伊勢: 極東にヘブライ語を見事に操る日本人の学者がいるというニュースはまたたくまに世界に広がり、エルサレムの新聞でも小辻は紹介された。
花子: このスピーチが機縁となって、「命のビザ」で日本に逃れてきたユダヤ難民たちから、助けを求められたんですね。
■4.神戸行きの汽車に飛び乗って
伊勢: 1939(昭和14)年、松岡洋右は満鉄総裁を退任し日本へ帰国、翌年第二次近衛内閣の外務大臣に任命された。少し遅れて小辻も総裁顧問の職を辞して日本へ帰ることになった。そして鎌倉にいた小辻のもとに、神戸のユダヤコミュニティの代表者たちがやってきたんだ。2人の依頼を聞いて、小辻は汽車に飛び乗り、12時間かけて神戸に着いた。
花子: すごい行動力ですね!
伊勢: 神戸のユダヤ人協会に着くと、床にコートを敷いて寝ているユダヤ人たちで足の踏み場もないありさま。特にやることもなく、行く所もないユダヤ人たちは日中は協会の前の道路などにたむろしていた。
花子: 大変な状況ですね。どんな問題があったんですか?
伊勢: 日本への通過ビザを持っていない難民の問題があったり、ユダヤ人たちの生活上のトラブルの処理があって、小辻は忙殺された。しかし、最大の問題は、通過ビザの期限の延長だった。わずか10日では次に行く国の入国ビザなどとれない。もし延長されなければユダヤ難民たちは強制送還になる。これが最も深刻な問題だった。
■5.松岡外相の秘密のアドバイス
花子: 小辻さんは、その問題をどう解決したんでしょうか?
伊勢: 小辻は何度も、外務省の役人にビザの期限延長を頼み込んだが、彼らはまったく耳を貸そうとはしなかった。そこで小辻が思い浮かべたのが、かつての上司だった、時の外務大臣、松岡洋右だった。小辻は多忙な松岡との短い面会時間をなんとか取り付けた。
花子: 松岡さんに直接会いに行ったんですね!
伊勢: 松岡は『ここでは話せない。外で話そう』と皇居のお堀端の散歩に連れ出した。話が省内にも漏れないように、慎重だったんだ。
花子: 大臣なのに、なぜそんなに慎重だったんですか?
伊勢: 松岡は、ドイツとの同盟は、アメリカの対日強硬路線を牽制する効果があると考えていた。同時に、ユダヤ人を救うことで、アメリカの政界に大きな力を持つユダヤ人コミュニティーを通じて、対米戦争を回避できるかもしれないと考えていた。しかし、公にユダヤ難民を救うことは、ドイツを刺激しかねない。複雑な国際情勢の中で板挟みだったんだ。
ドイツは日本のユダヤ難民政策に神経を尖らしていた。なにしろ、「ワルシャワの殺人鬼」と呼ばれる、ヨーゼフ・アルベルト・マイジンガーを東京の駐日ドイツ大使館付の親衛隊情報部代表として派遣していたんだ。
マイジンガーは1939年から41年にかけてポーランド・ワルシャワで親衛隊情報部指揮官として10万人ともいわれるユダヤ人を虐殺した人物だった。そんな人物が東京のドイツ大使館にいたら、外務省内にもどんなネットワークを張り巡らせているか、分からないからね。
花子: それで松岡さんはどうしたんですか?
伊勢: 松岡は『一つだけ可能性がある』と、アドバイスをした。
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ユダヤ難民のビザを延長させる権限は、神戸の自治体にある。自治体の行うことに政府は基本的に関与しない。地方自治体に任せっぱなしだ。もし、君が自治体を動かすことができたなら、外務省はそのことを見て見ぬふりをしよう。それは友人として約束する。[山田、p90]
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花子: なるほど!地方自治体を通じてなら可能だということですね。
■6.警察幹部と「友」となる
伊勢: ビザ延長の権限は警察にあった。小辻は警察幹部に対して賄賂を使ったり、面と向かってビザの延長を頼み込んだりする方法をとらなかった。彼は警察幹部と「友」として信頼を築いてから、頼み事をするアプローチをとった。
花子: なるほど、具体的にはどうしたんですか?
伊勢: 親戚から多額の借金をして、神戸で一番の料亭に警察幹部5,6人を招待した。ユダヤ難民の話はおくびにもださずにね。2日後、また料亭に警察幹部を招待した。その時もユダヤ難民の話はしなかった。さらに数日後、3度目に招待した際に、小辻はようやく「おりいってお願いがあります」と切り出した。
日本に逃げてきたユダヤ難民の窮状を切々と語り、彼らのために日本での滞在期間の延長を許可してほしいと何度も頭を下げた。小辻の真剣な熱意に動かされた警察幹部は、十日間のビザを一回につき15日延長するという許可を出し、申請を数回すれば長期の日本滞在が可能になったんだ。小辻の計画は見事に成功した。
■7.日本の歴史の1ページに「ホロコースト」という汚点を残さずに済んだ
伊勢: ビザが延長されると、今度はユダヤ難民たちを次の国に送り出す仕事が待っていた。昭和16(1941)年の春ごろから少しずつ難民たちは日本を出国しはじめた。ビザを有する者はアメリカやカナダへ、有しない者はビザの必要がない上海へと旅立って行った。
花子: 次の国への送り出しも大変だったでしょうね。小辻さんはどんなお仕事をされたんですか?
伊勢: 小辻はその船便の確保のために神戸や横浜の港へ毎日のように出向いた。まさに東奔西走の日々だった。渡航資金の問題などは、ユダヤ難民のリーダーだった法学博士ゾラ・バルハフティク氏が世界各地のユダヤ人組織に協力をよびかけた。
花子: それで皆さん無事に出国できたんですね?
伊勢: そうだ。こうして、昭和16(1941)年の秋頃には、ほとんどのユダヤ難民が日本から出国していた。大東亜戦争が始まったのは、その年の12月8日だった。その後にも、ユダヤ難民が残っていたら、どうなっていただろう。著者の山田順大氏はこう語っている。
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戦時中の混乱期では彼らの身の安全はまったく保障されなかっただろう。ましてあのナチス親衛隊のマイジンガーが手をこまねいて見ているはずもない。日米開戦の前にほとんどの難民を日本から出国させたことで、日本の歴史のーページに「ホロコースト」という汚点を残さずに済んだのである。小辻がその功労者の一人であることは言うまでもない。[山田、p114]
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花子: 本当にギリギリのタイミングだったんですね。
伊勢: その後、小辻はナチスの影響による日本国内の反ユダヤ・キャンペーンと戦うために、講演旅行をしたり、著書を著した。そのことによって、憲兵隊に拷問を受けたりもした。それから逃れるために再び満洲に渡った。
終戦後、満洲から脱出する際にはユダヤ人たちが命懸けで彼を助けてくれた。その後、小辻はユダヤ教に改宗し、死後は「エルサレムに眠りたい」との遺言を残す。こうした点でも、多くのユダヤの友人たちが彼を助けてくれたんだ。
花子: 小辻さんが助けたユダヤ人たちが、今度は小辻さんを助けてくれたんですね。素晴らしいお話です。
伊勢: その物語は、山田順大氏の著書を直接、読んでもらいたい。人と人との絆がいかに大切かを教えてくれる感動的な物語だ。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
・テーマ・マガジン「人種平等への戦い」
人種平等を国是とする大日本帝国は、有色人種唯一の近代独立国家として、西洋植民地主義、反ユダヤ主義による世界の人種差別を座視できませんでした。
https://note.com/jog_jp/m/m0adcb216fbb6
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
・山田純大『命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民』★★★、NHK出版、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/414081599X/japanontheg01-22/
■前号「天皇の祈りこそ最高の道徳教材 ~ 歴人(歴史人物学習館)便り(11)」へのおたより
■自分のことを毎日祈ってくれている人がいる幸せ(夏子さん)
今回の天皇陛下の祈りの話ですが、大人にも届く体験をしたことがあります。
私のいとこが、何かと大変な日々を過ごしていました。「人生すべてうまくいかず、心身へとへと」のようでした。私も時々相談に乗ったりしていましたが、ある日、”万策尽きた” 感がありました。
一つだけ、まだ言っていなかったことがあると気づき、数年前、SNSで伝えてみたのです。その記録を見ながらシェアします。
「〇〇ちゃんがどんなに大変でも、苦しくても、〇〇ちゃんの安寧を、毎日、祈ってくれている人が、日本には一人います。〇〇ちゃんは孤独ではないよ。それを覚えておこう。」
返事があって、何度かのやり取りを経て本人が落ち着いてきたようだったので、
「ちなみに、〇〇ちゃんのことを毎日、祈ってくれてるのが誰か知ってる? その人は、私のことも祈ってくれてる。」
「あー△△おばちゃん!!」
「違う。」
「?」
「天皇陛下です。」
「そっかー!」
「覚えとく。国民の安寧を祈ってくださってるんですね。教えてくれてありがとう。日本に私はお世話になって生きていて日本が好きです。」
いとこは昭和の後半に生まれ、ごく普通の戦後の学校教育を受けた日本人。特段、日本や皇室のことを私と話したことはありませんでした。
でも素直に私のことばを受け取ってくれて、嬉しかったです。
今回のメルマガを読んで、その感受性を担保する力が、まだ祖国日本には残っているのかもしれない。それは、二千年以上に及ぶ、歴代の天皇陛下と我々のご先祖様の関りの中から生まれ、消えずに残った灯か、と希望を持ちました。
私はこの頃、「私には天皇陛下がついている!」と思って生きております。
これは世界広しといえども、日本国の氏子である日本国民のみに許された、ある種の特権ではないかと......。
■伊勢雅臣より
誰かが自分の幸せを祈ってくれているというのは、幸せそのものですね。そういう幸せを日本国民は頂いています。
読者からのご意見・ご感想・ご質問をお待ちします。本号の内容に関係なくとも結構です。本誌への返信、ise.masaomi@gmail.com へのメール、あるいはブログのコメント欄に記入ください。
■編集後記
米国のトランプ大統領は、中国人留学生60万人(従来の2倍)にビザを発給するという突然の方針転換を行い、米国内保守層の反発を招いています。一方で、インドにはロシア産原油の輸入を理由に50%の高関税を課しています。中国も同様にロシア産原油輸入を続けているのに、こちらは黙認。
「インドを味方にして中国を牽制する」という安倍元総理が提唱した「自由で開かれたインド太平洋構想」を第一次トランプ政権も、バイデン政権も支持していましたが、現在のトランプ政権はこうした外交戦略を完全に見失って、迷走を続けています。
第一次トランプ政権がかなりまともな外交戦略を持っていたと見えたのは、安倍元総理のコーチングの賜かと思えてきました。安倍元首相の不在は、国内の石破政権と米国のトランプ政権の二つの迷走を引き起こしているのでは、と思います。
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