JOG(1443) 犬養毅(つよし) ~ 対話に生き対話に死んだ政治家


 犬養毅は政党政治家として、金も権力も求めず、ひたすら言論と対話によって、日本を良い国にしようとした。

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■1.満洲事変収拾に「身命を賭す」覚悟

伊勢: 花子ちゃん、犬養毅という首相を知っているかい?

花子: 歴史の授業で、名前を聞いたことがあるような気がしますけど、どんな事をした人かは知りません。

伊勢: 「立憲政治の擁護者」として、普通選挙の導入などに尽力した政党政治家として知られているけど、私はこの人の生き方は素晴らしいと思う。ぜひ、話を聞いて欲しいんだ。

 犬養は、昭和6(1931)年12月12日の夕刻、皇居に参内した。元老・西園寺公望からの首相推挙を受けてのことだった。その時、天皇は「満洲の関東軍を何とか抑えてくれ」との言葉を賜った。

花子: 満洲事変の直後に首相に就任したんですね。

伊勢: ああ、それだけではない。天皇はさらに、「中国が日本に多くの文化をもたらしてくれたため、争いたくはない」とし、「犬養頼むぞ」と直々に頼んだんだ。

花子: とても重い責任を託されたのですね。犬養さんはどのように応えたのですか?

伊勢: 「この時犬養は心中、この天皇に命を捧げることになるとの確信に近いものを持った」そうだ。そして、犬養は「身命を賭して」対処する決意を述べたんだ。[今西、p144]

花子: 本当に重大な決意だったのですね。

伊勢: 結局、この言葉の通り、犬養はこの仕事に命を捧げることになったんだ。

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■2.「憲政の神様」は「渇すれども盗泉の水は飲まず」

伊勢: 犬養は明治23(1890)年の第1回衆議院議員総選挙で初当選して以来、19回連続当選した政治家だ。藩閥政府と戦ったため、ほとんど内閣には入らず、「万年野党の雄」とも「憲政の神様」とも言われた。

花子: 「憲政の神様」とは立派な呼び名ですね。

伊勢: 犬養の政治家としての姿勢をよく示すエピソードがある。大正3(1914)年、山本権兵衛内閣がシーメンス事件、これは軍需産業と軍部、政界を巻き込んだ収賄事件だけど、この事件で倒れた後、大隈重信が次期首相に担ぎ出された。その黒幕に藩閥があると知った犬養は、大隈から入閣を持ちかけられたが断った。

「犬養よ、ずっと野党でいくつもりか?」
「大隈さん、私の性格知っとるじゃろ? 渇すれども盗泉の水は飲まず」[今西、p91]

 政治家としてほとんどを野党で過ごした犬養は万年金欠病だった。ただ書家としても有名で、清廉な政治家というイメージから全国から揮毫の注文が殺到して、毎晩「副業」に追われる日々だったという。

花子: 政治家には権力やお金などの誘惑がつきものだと思いますが、とても清廉な政治家だったのですね。

伊勢: そうだね。大正14(1925)年、自ら率いていた革新倶楽部を、対抗勢力であった政友会と合同させ、衆議院議員を辞職し、政界引退を表明した。しかし、地元岡山の選挙民が犬養の引退を認めず、本人の承諾を得ないまま補欠選挙で再選させたんだ。この熱狂的な支持により、犬養は再び議員の座に戻らざるを得なくなったんだ。

花子: 当時は周囲の人が勝手に立候補させることができたんですね。でも、それだけ地元の人たちがそれほど犬養さんを支持していたんですね。

伊勢: そうだね。そして昭和6(1931)年に勃発した満州事変で、若槻内閣が瓦解。元老・西園寺は、満州事変の平和的処理と軍部の台頭阻止という難局に立ち向かうには、長年孫文ら中国の革命家たちを支援してきた経験と人脈から、犬養こそ事態収拾に適任だと考えたんだ。こうして犬養は、満洲事変収拾を最大の課題として、首相に任ぜられた。

花子: 犬養さんは中国の人々からも信頼されていたのですね。


■3.大アジア主義と個人的な義侠心と

伊勢: 犬養は中国の孫文だけでなく、アジア各国の独立運動家を支援していたんだ。ベトナム独立運動の指導者ファン・ボイ・チャウ、朝鮮の金玉均、フィリピンのエミリオ・アギナルド、インドのラス・ビハリ・ボースなどを支援していた。

花子: たくさんの国の独立運動家を支援していたのですね。どんな考えで支援していたのですか?

伊勢: 犬養の信条は「大アジア主義」と呼ばれ、欧米の植民地支配から、アジア諸民族を解放することを目指していた。特に孫文の支援では、中国での革命により、日本と同様の近代化を進めさせて、日中共同で欧米の植民地主義に対抗すべき、という考えだったが、一方、革命家たちを助けたいという個人的な義侠心もあった。

花子: 政治的な考えと個人的な義侠心の両面があったのですね。

伊勢: そうだね。たとえば、大正2(1913)年、孫文の第二革命が失敗し、袁世凱が実権を握った後は、袁世凱を親日政権の担い手として犬養も期待した。だから孫文の利用価値は無くなっていた。

花子: それでも犬養さんは孫文を見捨てなかったのですか?

伊勢: そうなんだ。孫文が暗殺を恐れて日本に亡命しようとした際、当時の山本権兵衛内閣は北京政府に配慮して孫文の入国を拒否する方針だった。

 犬養は、政府がかつて大騒ぎで歓迎した孫文に対して手のひらを返すような仕打ちをすることに「怪しからぬ」と憤り、自ら山本首相と掛け合って、孫文の日本上陸と滞在を実現させた。

 そして孫文に東京で小さな家を与え、そこに住まわせて、生活費の面倒も見ていた。こうした義侠心による付き合いは、孫文の死まで続き、孫文の葬儀にも日本における最も古い友人の一人として招かれた。

花子: 本当に最後まで友情を大切にされた方だったのですね。


■4.犬養の満洲事変収拾案

花子: 首相となった犬養は、満洲事変をどうやって収拾しようとしたんですか?

伊勢: 犬養は内閣発足直後の閣議の日の夜、長年の「大陸浪人」仲間であり孫文の支援者であった萱野長知(かやのながとも)を密使として上海へ派遣したんだ。

花子: 密使ですか! どんな任務だったんですか?

伊勢: 萱野に託された密命は、中国国民党政府の指導者の一人である孫科(孫文の長男)に犬養の書簡を届けることだった。犬養の提案した和解案の骨子は以下の通りだ。

・満州の宗主権は現状通り南京の国民党政府にあると認める
・満州の開発のため、満州に限定して日中合作の地域政府を設ける(名目上は中国領だが、経済的には事実上日本の支配下に置く)

花子: なるほど。中国のメンツも立てながら、日本の利益も確保しようとしたんですね。

伊勢: そして関東軍のメンツも立たせようというものだった。日中そして関東軍の三者が合意できそうな現実的な案だった。犬養は、萱野が中国国民党の要人である巨正(きょせい)を通じて孫科を説得できると期待していたんだ。そして実際に中国国民党の内諾も得た。

 一方、国内では、解散総選挙を行い、圧倒的多数の与党となって、陸軍の暴走を阻止しようとした。昭和7(1932)年2月の総選挙において、政友会は記録的な大勝を果たし、議席を倍増に近い301議席獲得した。

花子: すごい勝利ですね! 中国国民党の内諾も得て、国内でも圧倒的な勢力を持って、これならこの収拾案もうまくいったんですか?


■5.失敗に終わった犬養工作

伊勢: 残念ながら失敗に終わった。大陸にいる萱野からの暗号電報を、森恪(もりかく)という内閣書記官長が握りつぶしていたんだ。萱野は不審に思って、1月23日に帰国して、犬養に会った。犬養は、萱野に何かあったかと思っていたが、無事に帰ってきたのを喜んだ。

 調べてみて、森恪が真犯人だったということが分かった。森恪は、もともと関東軍に同調する強硬な意見を持っていたが、犬養はこの「最も危険な男を封じ込める」ためにそばに置いたのだった。犬養は森の任命に際して、満州事変の早期収拾が内閣の使命であること、そして「君は我が犬養内閣の書記官長であって、陸軍の将兵ではない」と、陸軍の行動を抑えるよう強く命じている。

 それにも関わらず、森恪はこんな不正な手段で、犬養工作を妨害した。そして、この時点では、すでに時遅しとなっていた。

花子: それで、どうなったんですか?

伊勢: 昭和7年2月、関東軍はハルピンを占領し、満州全土を軍事支配下に置いた。3月1日、関東軍は清朝最後の皇帝溥儀を執政とする「満州国建国」を宣言したんだ。

花子: 森恪のたった一つの仕業で、歴史が大きく変わってしまったんですね...

伊勢: その通りだ。犬養の日中の対話による解決策は、森恪の仕業と関東軍の独走によって潰えてしまったんだよ。

花子: もし、犬養の工作が成功していたら、その後の日中関係はどうなっていたでしょう?

伊勢: 蒋介石政権は、この頃、まだシナ本土18省のうち4省を支配しているに過ぎず、満洲にまでは到底、手が回りかねていたので、満洲の主権さえ認めてくれれば、それで手を打つという可能性は十分にあった。日本と蒋介石政権がしっかり手を握っていれば、その後の日中戦争も起こらなかったかも知れないし、日中戦争に乗じて、中国共産党が大陸を支配することもなかったかもしれないね。
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JOG(1236)満洲事変の後、日本は世界から孤立したのか?
「たかが」勧告程度で、日本が国際連盟を脱退するなど、各国には思いもよらなかった。
https://note.com/jog_jp/n/n71108385c163
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 犬養は満洲国の建設で、中国人を敵に回し、彼らがソ連と組むことを最も恐れていた。アジアの安定のためには、中国がソ連と提携する事態を何としても避けなければならないという強い危機感を抱いていたんだ。

花子: 結果的に見れば、その最悪の事態が、共産中国の大陸統一によって、実現してしまったのですね。

伊勢: 日本は満洲国に膨大な投資を行って、10数年のうちに高度な工業国家を作り上げたけど、武力で一方的に始めてしまったのだね。犬養のように中国人と対話をして、その協力を得ながら進める、という政治的配慮には欠けていたんだね。


■6.「今の若いモンもう一度呼んで来い。話して聞かせることがある」

伊勢: 犬養は昭和7年(1932年)5月15日に、首相官邸で海軍の青年将校らの凶弾に倒れた。これが五・一五事件だ。実行犯は主に海軍の青年将校ら9名だ。彼らは政党政治家そのものが「腐敗の象徴」だと考えた。もともと犬養の前任の若槻礼次郎首相が標的とされていたが、犬養が首相に就任した後、彼が標的となったんだ。

花子: どのように襲撃されたんですか?

伊勢: 凶行が行われたのは日曜日の夕方だった。海軍中尉三上卓のグループ5名が官邸の表門から侵入し、日本館(和館)に入った。犬養首相はその家族室にいたが、暴徒の一人がピストルを構えたものの発射できなかった。再び銃を構えようとした時、犬養は「マア待て、話せばわかる」と大喝し、暴漢を圧倒したんだ。

花子: すごい胆力ですね! それで?

伊勢: 犬養は悠々と暴漢たちを和風応接間に導き、着席させた。犬養が「靴ぐらい脱いだらどうだ」と述べた直後、裏門から潜入した海軍中尉山岸宏のグループ4名が客室に入ってきたんだ。そのうちの一人が「問答無用、撃て」と叫び、銃弾が発射された。

花子: 即死だったんですか?

伊勢: いや、頭蓋に銃弾が命中し、犬養はテーブルの上に顔を伏せたが、即死ではなかった。犬養は右耳のあたりを血まみれにした状態で座っており、駆けつけた女中に「テル。煙草に火をつけてくれ」と要請した。

花子: 撃たれた後でも、そんなに冷静だったんですか!

伊勢: そうなんだ。応急処置を施した医師に対し、犬養は「傷は深いか」「急所に当たっておるか」と尋ねた。医師が「急所ではありません。だから話もできれば、煙草も持てるではありませんか」と答えると、犬養は「なるほど、そんならテル、今の若いモンもう一度呼んで来い。話して聞かせることがある」と強い口調で命じたんだ。

花子: 最後まで、青年将校たちと話そうとしたんですね...

伊勢: その通りだ。しかし午後9時には昏睡状態に陥り、翌5月16日の午後1時26分に静かに最期を迎えた。享年77歳だった。


■7.「対話に生き対話に死ぬ」

伊勢: 「話せばわかる」と対話を信じた政治家が、「問答無用」と撃たれた。

 犬養は「政治に生き政治に死ぬ」という言葉を残している。この「政治」とは、犬養にとっては「対話」によって物事を決するという意味だったのではないかな。だから、長い政治家としての人生を通じて、ほとんど野党議員として国会の場で、ある時は痛烈に政府を批判し、ある時は政府の政策に応援演説をしている。野党議員として、政府との対話を通じて、より良い日本を目指したんだね。

 満洲事変の収拾に関しても、武力で自分たちの考えを押し通そうとする関東軍に対して、あくまで中国側との対話を通じて解決しようとした。

 そして、自分を撃ったテロリストたちに対してまで「今の若いモンもう一度呼んで来い。話して聞かせることがある」と対話をしようとした。

花子: まさに「対話に生き対話に死んだ」政治家だったのですね。 (文責 伊勢雅臣)


■リンク■(JOGの過去号がテーマ別に読めます)

・テーマ・マガジン「アジア独立と日本」
 近代日本のアジア解放の戦いを辿ります。
https://note.com/jog_jp/m/ma2e8aec6af0f

・テーマ・マガジン「満洲 ~ 日本が13年で作った重工業国家」
 わずか13年で満洲を重工業国家に発展させた偉業の記憶は、いずれ日本の大切な財産となる。
https://note.com/jog_jp/m/m3f7480353e34


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

・時任英人『犬養毅 その魅力と実像』★★、山陽新聞社、H14
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4881977024/japanontheg01-22/

・今西宏康『恕の人 犬養毅』★★★、吉備人出版、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4860695399/japanontheg01-22/


■伊勢雅臣より

 読者からのご意見・ご感想・ご質問をお待ちします。本号の内容に関係なくとも結構です。本誌への返信、ise.masaomi@gmail.com へのメール、あるいはブログのコメント欄に記入ください。

■編集後記

 本号で犬養を「対話に生き対話に死ぬ」と題して描きましたが、最近、「真の学問は対話にある」という気がますますしています。
教室は教師との対話の場であり、読書は著者との対話です。プラトンは対話を通じて真理を探究しました。我が国でも和歌は自分の思いを人に伝える手段でした。

 最近の私の講演でも、参加者どうしで議論してもらったり、それを発表してもらって私も対話に加わる、という形で議論が活性化しています。このメルマガを花子ちゃんとの対話形式にしたのも、この考えからです。

 聖徳太子の十七条憲法で「和を以て貴しと為す」で始まる有名な第一条も、その結びは「上の者が和らぎ、下の者が睦まじく、議論が調和すれば、物事の道理は自然と通じ、何事も成し遂げられないことはない」です。「和」とは単に仲良くしようということではなく、心を開いて対話をしよう、ということなのです。

 今号で紹介した犬養の生き方は、政治の本質も対話にあるべきことを示していると思いました。

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