JOG(1451) 学校が教えない『明治日本の奇跡』の秘密 ~ 開国後60余年で国際連盟常任理事国にのし上がった要因は?


 明治日本が世界史に刻む奇跡を為しとげた成功要因を、現在の歴史教育では説明できない。

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■1.学校が教えない「明治日本の奇跡」

 12月7日に発売された拙著新刊『世界史に刻んだ明治日本の奇跡 ~開国から60余年で国際連盟理事国へ』は、次の疑問に答えるための本です。
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 日本が開国した 19世紀半ばは、西洋列強による植民地支配と人種差別が地球を覆っていた時代でした。・・・
 その(荒海への)船出の結果、我が国は黒船来航からわずか3分の 2世紀後には、日清、日露、第一次大戦という大波を凌いで、国際連盟の理事国となりました。極東に閉ざされていた島国が、世界の指導的大国の一つにのしあがったのです。しかも、史上初の有色人種による近代国家として。
 なぜ、我が先人たちは、こんな奇跡を実現できたのでしょうか ?これこそ、近代日本が成し遂げた世界史に刻まれた奇跡の物語でした。[伊勢、p9]
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 現在の歴史教育では、この「明治日本の奇跡」が実現できた要因を教えてはくれません。いえ、そもそもこれを「世界史上の奇跡」として認識もしていないのです。

 この「奇跡」の謎を解くためには、当時の先人たちの苦闘の様を史実に即して見ていく必要があります。幸い、近年の歴史学界はマルクス主義の先入観から脱却して、史実を克明に見ていく研究者が続々と登場しつつあります。本書は、これらの方々の研究成果に基づき、「明治日本の奇跡」はなぜ実現できたのか、という疑問に迫っています。

 本稿では、そのいくつかのキーポイントをご紹介しましょう。

表紙と前半6人.png


■2.「開国か攘夷か」ではなく「開国による攘夷」

 幕末の日本人を立ち上がらせたのは、清国のアヘン戦争での敗北でした。大国清が、地球の裏側の(中国人曰く)「ケシ粒のような小国」からやってきたイギリス艦隊にコテンパンにやられましたのは大ショックでした。

 幕末の日本人は、これを見て、欧米列強の近代軍事力に立ち向かうには、まず国を開いて、その軍事技術を学ばねばならない、と考えたのです。「攘夷」とはあくまで国の独立を守ること、そのためにこそ「開国」が必要だと考えたのは、極めて合理的な考えです。

 それを訴えたのが佐久間象山(しょうざん)。「夷(えびす、欧米列強)の術を以て夷を制す」として自らオランダ語を数ヶ月の独学でマスターして、オランダ語の百科事典を調べ、大砲、小銃、火薬の製造、写真機、電信機、地震計の製作まで取り組みました。

 象山は開国攘夷、富国強兵、殖産興業、欧米への留学生派遣、欧米人教師の招聘などを提唱していました。その弟子の吉田松陰は、この考えに共鳴して、自らペリーの黒船に乗せてもらって、アメリカに渡ろうとして、失敗しました。それも、自らアメリカで、近代技術を学ぼうとしたのです。

「開国か攘夷か」というフレームワークだけで捉えていると、尊皇攘夷派の薩長が政権をとったら、なぜいきなり留学生派遣や、お雇い外国人招聘、さらには貿易振興にまで、積極的に取り組んだのか、理解できません。「開国による攘夷」、そこから五箇条の御誓文の「智識を世界に求め」、さらには富国強兵とつながっていくのです。


■3.日本の役人がパナマ運河も蒸気機関も知っているのに、アメリカ人たちは呆気にとられた。

 ペリーの来航は、その前年に、長崎のオランダ商館からの公文書で知らされていました。当時の日本は、オランダからの情報で、最新の技術や世界情勢などを掴んでいました。

 たとえば、ペリーの持ってきた大統領の親書を浦賀近くで受け取ることが合意された時、浦賀奉行所の与力・香山栄左衛門と、通詞・堀達之助がペリー艦隊の一隻に乗り込み、その艦長と具体的な打ち合わせをしました。

 その際、米側が2人を驚かせようと、大きな地球儀を持ち込みました。彼らは日本を世界のことを何も知らない未開の国とばかり思い込んでいたのです。

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 そこで堀はおもむろに地球儀に近づくと、慣れた手つきでそれを回し、ワシントンの地点を指さして「ワッシントン」と言い、香山に向けて「メリカの都」と付け足しました。香山がうなずくと、堀は、(士官の)ポートマンに「政治の首都」と言い、さらにニューヨークを指さして「経済の首都」と言います。
 堀は、なおも地球儀を素早く回して、イギリス、フランス、デンマークその他ヨーロッパ諸国を一つずつ指さしてその国名を口にしました。士官たちの顔から、薄笑いの表情が消えていました。[伊勢、p100]
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 香山が「岬を横切る舟路」(パナマ運河)に言及すると、士官たちは呆気にとられた表情を浮かべました。

 その後、ポートマンは、なんとか日本人を驚かそうと、2人を機関室に連れて行き、蒸気機関を見せました。
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しかし、堀はオランダを通じて入ってくる洋書で、蒸気機関や蒸気船の図を飽きるほど眼にしており、また薩摩藩では蒸気機関の試作も始めていました。香山もそのような図面を見たことがあるらしく、驚いた風もなく機関にわずかに手をふれただけでした。「それでは、これにて……」と香山は丁寧に頭を下げると、梯子を上りました。[伊勢、p100]
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■4.自分を送り出した大統領が代わって後のないペリーの足元を見た筆頭老中・阿部正弘

 黒船来航と日本開国について、通常の理解は、(1)無能な幕府が、(2)強大なアメリカの軍事的圧力に屈し、(3)極端な不平等条約を結んだとする説です。しかし、実際の交渉記録を見れば、幕府の方が、ペリーの足元を見て、平和交渉によって対等な条約を結んでいます。

 幕府の筆頭老中・阿部正弘は、米大統領が民主党のピアスに代わり、前大統領の対日戦略も継承されないことを知りました。前大統領の命令で来航しているペリーも今回の来航で話をまとめなければなりません。

 薪水食料石炭の供与と難破船救助程度なら、12年前に発した「薪
水給与令」を、米国との条約に書き込むだけに過ぎません。交易はアヘン戦争の例もあり、国内の攘夷派の説得に時間がかかります。それは数年先延ばしにして、まずは和親条約だけをまとめました。

 ペリーはこのあと、さらに通商条約を求めましたが、これは日本側が即刻拒否しました。

 ペリーは「こちらの要望事項が承認されない場合は、近海に50隻、カリフォルニアに50隻の軍艦を用意している」と脅しましたが、オランダが毎年送ってくる国別の軍艦情報では、アメリカはあと5隻を日本近海に回せるのが限界です。ペリーのはったりは日本側に
見破られていました。

 逆に日本側の目論見通り、ペリーは今回の交渉で、なんとしても条約をまとめないと、おめおめ失敗者として帰らなければならないことを恐れていました。ペリーは通商条約の要求をすぐに引っ込めました。こうして、阿部の目論見通り、ペリーとは和親条約だけを結び、通商条約は数年後に先送りできたのです。


■5.当時最先端の「最恵国待遇」条項を活用して、各国横並びの修好通商条約を結んだ幕府の卓越した外交能力

 米国との修好通商条約は、ペリー来航の4年後に締結されました。それから3ヶ月で、同様の条約が対オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも結ばれました。

 この頃には、「最恵国待遇」の考え方が急速に国際的慣例として普及し始めていました。この条項を入れておけば、日本が他国により良い条件を提供したら、自動的に自国にも展開されるという約束です。

 逆に言えば、後発のイギリスやロシアに対して、アメリカと同じ条件なら日本はすぐにでも条約を結べますが、それより良い条件を求めたら、途端に難しくなります。正弘以下、当時の幕閣はこの最新の国際的慣例を理解・活用して、まず米国との間に穏健な和親条約を結んでしまい、他国のそれ以上の要求に蓋をしたのです。

 修好通商条約について、領事裁判権がない、関税自主権がない、という批判がなされていますが、それには事情がありました。まず当時の平和で安全な日本の刑罰は欧米よりもはるかに犯罪者に厳しく(民家に押し入って10両以上を奪えば、死罪・さらし首)、そのまま外国人に適用すれば、国際問題に発展しかねないこと。

 また輸入関税は20%と当時の欧米列強が互いに課していた率と同程度の水準でした。しかし、その後の長州の下関戦争で5%に下げさせられ、関税自主権を失ったのです。


■6.独立維持のための軍事技術を開発した富国強兵の先駆・佐賀藩

 開国攘夷のための富国強兵を、幕末の頃から先導していたのが、佐賀藩でした。佐賀藩は長崎港の防備を幕府から命ぜられており、藩主・鍋島直正公は長崎港入り口の島や港内に砲台を設けて防備を固めようと考えました。それも高温で鉄を溶解する反射炉を作って鉄製大砲をつくり、西洋列強に負けない防備を計画しました。そのために、幕府に10万両もの借金を申し入れました。

 名宰相・阿部正弘は反射炉や鉄製大砲を開発するには、図体の大きい幕府よりも、小回りが利き、かつ長崎港警備という大義名分のある佐賀藩にさせた方が良いと判断したのでしょう。佐賀藩は蘭学を修めた俊英を集めて、反射炉、鉄製大砲、さらには蒸気船まで自力開発に成功しました。

 阿部は、ペリー来航後、江戸湾防御のために、品川沖に台場をつくり、そこに鉄製大砲60門を並べましたが、それはすべて佐賀藩が量産したものです。

 明治日本が独立を維持できたのは、後に日露戦争でロシアを破るほどの軍事力を整備したからですが、その技術的基礎は幕末の佐賀藩が築いたのです。


■7.最後の将軍・徳川慶喜の勤皇報国の精神が、大規模な内乱を防いで植民地転落の危機から国を救った

 王政復古の大号令が発せられ、将軍家に辞官納地(官位と領地の返上)を求められて、幕臣たちは薩摩藩の陰謀だと激高しました。慶喜は戦闘が始まるのを恐れて大坂城に引っ込みましたが、鳥羽・伏見の戦いが起こってしまい、船で江戸城に戻り、謹慎してしまうのです。「臆病者」「暗愚」などと非難されるような行動を、なぜ慶喜がとったのか、日本史の中でも最大級の謎でした。

 慶喜がその理由を語ったのは、それから20年も経った後でした。「それはひとえに皇国の分裂を避けるためであり、たとえ幕府の力で薩摩などを圧迫し得たとしても、国家の実力を損ずる事は莫大である、欧米諸国との外交が難しい時に、そのような事をしては皇国を顧みざる行動となる」と考えたのです。

 その時、慶喜がいきり立った幕臣らとともに薩長の軍と戦っていたら、日本は大規模な内乱に陥り、幕府をフランスが、薩長をイギリスが支援し、北からはロシアが侵入して、維新どころではなかったでしょう。そのまま外国の植民地に転落した可能性が大でした。

 そうした悲劇を防いだのは、慶喜の生家、水戸徳川家が代々築いてきた水戸学による、勤皇の志でした。幕末の動乱の時代に、天はよくも慶喜のような英邁な人物を最後の将軍に配してくれたものと、思わざるを得ません。慶喜の功績は明治天皇にも認められ、朝廷での位階をたびたび引き上げられ、明治35(1902)年には公爵、同時に貴族院議員に任ぜられました。


■8.すべての国民が主人公となる国民国家を目指した板垣退助の自由民権運動

 今日、自由民権運動は専制的な明治政府と戦った民衆の運動のよ
うに捉えられていますが、運動を始めた板垣退助の志はあくまで独立を守れる強い国をつくろう、というところにありました。

 幕末に、板垣は官軍の司令官として戊辰戦争に参加します。そこで見たのは、天下の雄藩と称えられた会津藩で、戦ったのは士族5千人だけであり、農民や町民は逃げ出したり、官軍に味方したりした光景でした。これではアヘン戦争で英国艦隊に負けた清国と同じです。

 本当に強い国になるためには、国民が一致団結して国の運営に当たらなければならない。そのために身分制度を廃止して、すべての国民が主人公となる国民国家とならなければ、というのが、板垣の思いでした。そこで板垣は、国民の意思を集約する議会制民主主義が不可欠と考え、自由民権運動を始めたのです。

 板垣は「一君万民」という言葉をよく使いました。天皇を中核に、すべての国民が平等に、一体となった国。幸いにも、我が国には近代的国民国家の理想と共鳴する伝統的理想が古代からあったのです。


■9.国柄に根ざした大日本帝国憲法は欧米の識者から高い評価を受けた

 明治22(1889)年、大日本帝国憲法が発布せられると、その英訳を読んだ欧米の識者は極めて高い評価を与えました。特に評価されたのは、この憲法が単なる欧米のモノマネではなく、日本古来の歴史・制度・慣習に基づき、それを欧米の憲法学の論理で語ったものだという点でした。

 それまで欧米諸国以外で憲法政治に成功した国はありませんでした。トルコが挑戦しましたが、一年足らずで憲法停止。明治政府は国家の自由と独立を維持し、欧米諸国の発展に追いつくためには、欧米諸国と同様に国民を広く主体的に国造りに参加させて、国民全体のエネルギーを結集することが必要で、そのために立憲政治が不可欠と考えていたのです。

 憲法起草の中心人物、伊藤博文は、ウィーン大学のシュタイン教授の指導を受けました。教授は「法は民族精神・国民精神の発露」という当時最先端の歴史法学の権威でした。さらに教授は行政権力が上から社会改革に乗り出し、国民の福祉を増進させるべき、と考えて、福祉国家思想の先駆者と言われています。

 明治憲法が軍国主義を生んだというような意見に関しては、昭和20(1945)年までの明治憲法の56年の歴史の中で、初期からの41年間は立憲議会政治が定着・発展を続けた、という事実を指摘しておけば良いでしょう。この立憲政治を基盤に、日本は国民のエネルギーを結集し、富国強兵と殖産興業に成功し、独立を維持して、世界の指導的大国へと成長を続けたのです。

 41年も立派に機能したものが、その後の大恐慌や総力戦という環境激変に対応できなかったからと言って、そこまで憲法に欠陥があったと批判するのは論理的ではありません。

 問題があったとすれば、その憲法を時代の激変に合わせて、成長・発展させることができなかった後輩たちの責任です。この点では、現行憲法も80年近くも改正されておらず、我々も偉そうな事は言えません。
(文責 伊勢雅臣)

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■リンク■

・テーマ・マガジン「近代日本、荒海への船出」(記事15編)
 鎖国を解いて、日本人は大船を作り、大洋を航海する技術を身につけます。それが、独立を維持し、世界の列強に伍してやっていく道でした。
https://note.com/jog_jp/m/m6ea37bf20070


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■拙著『世界史に刻んだ明治日本の奇跡』へのレビュー

■ ★★★★★これは家宝になる!(シュローダーさん)

 私自身、結構歴史好きな方です。

しかし、この本を読んで、「全然歴史を知らなかった!」と知りました。

この本には、江戸末期から明治期にかけての日本の歩みが記されています。

日本は、幕末、明治維新期の混乱を見事に乗り切りました。

まず、アジアで欧米列強の植民地にならなかったのは日本(とタイ)だけです。

しかし、「なぜ日本だけは、欧米列強の植民地にならなかったのか」を、学校では教えてくれません。

そして、日本の快進撃がはじまりました。

日本は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦に連勝し、「世界五大国」の一国、国際連盟の常任理事国になったのです。

この本を読むと、日本が独立を保てた理由を深く知ることができます。

・学校ではあまり習わない偉人たち(佐久間象山、横井小楠、阿部正弘、鍋島直正など)の想いと業績。

・有名であるが、正しく伝わっていない偉人たちの真実(徳川慶喜、板垣退助、渋沢栄一、福沢諭吉、山縣有朋、大久保利通など)。

・学校では習わない、江戸時代、明治時代の日本を見た外国人の驚き。

・そして、明治天皇の決意と想い。

知らない事実が山ほどあり、驚きと感動がありました。

ちなみに明治天皇の治世とその成功、奇跡の成長については、現在でも世界中で研究がなされています。

日本人だけが、「自虐史観」に汚染されて、自国の業績と偉人の真実を知らないという現状。

しかし、『世界史に刻んだ明治日本の奇跡』を読んだ人は、「本当の日本」を知ることになるでしょう。

絶対お勧めの一冊です!


■伊勢雅臣より

>日本人だけが、「自虐史観」に汚染されて、自国の業績と偉人の真実を知らないという現状。

 この言葉に共感しました。「明治日本の奇跡」を知れば、これからの日本に関する志も元気も湧いてきます。

 読者からのご意見・ご感想・ご質問をお待ちします。本号の内容に関係なくとも結構です。本誌への返信、ise.masaomi@gmail.com へのメール、あるいはブログのコメント欄に記入ください。

■編集後記

 浜崎あゆみさんの上海コンサートが中国当局の影響で急遽中止されましたが、彼女は現地で無観客ライブを敢行し、プロとしての姿勢が各国メディアで絶賛されました。

 浜崎さんは、インスタグラムで「無観客ライブ」の写真を9枚投稿し、こう述べたそうです。

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「1万4千の空席が並んでいたけれど、世界中のTA(Team Ayu=浜崎あゆみのファンの呼称)からあふれるほどの愛を感じた。これは私にとって何よりも忘れられない公演の一つです。日中両国から集まった200人のスタッフ、バンドメンバー、ダンサーの皆さんに感謝します。このステージを実現させてくれて、心からありがとう……」
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 日本人の伝統的な職人気質と他者への感謝があふれた姿勢です。中国政府の浅薄な嫌がらせぶりが浮き彫りになりました。

「大紀元」R071205「浜崎あゆみ 上海無観客ライブ決行 中国でも称賛の声続々!」

以上

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